2024年4月17日(水)

足立倫行のプレミアムエッセイ

2019年8月31日

現場の判断を無視して決行された空母〈信濃〉の夜間出航

 端的なのが空母〈信濃〉の沈没である。

 〈大和〉と同型の戦艦〈信濃〉は、昭和19(1944)年10月、「起死回生」の兵器、世界最大の空母〈信濃〉として蘇った。

 11月28日、最終艤装のため呉に初航海となった。護衛は〈雪風〉など駆逐艦3隻。

 航路は、駆逐艦の3艦長とも昼間・沿岸ルートを主張した。ところが〈信濃〉艦長は、軍令部の指令だと夜間・外洋ルートを断行。

 対潜水艦戦のベテランたちの進言を無視したこの断行が仇となった。世界最大の空母は海戦に一度も参加することなく、29日夜中に魚雷4発を受け、午前11時前に撃沈した。〈信濃〉艦長ら乗組員791人が戦死した。

 これだけで終わらなかった。駆逐艦3隻が救助した生存者1080人のうち下士官と兵は呉上陸を許されず、近くの島に隔離され、その後最前線の戦場へと送られたのだ。〈信濃〉沈没を国民に知らせぬためである。

 指揮官の誤った判断で多数の犠牲者が出た時、日本の軍隊で合理的な責任追及がなされることはほとんどなく、むしろ事情を知る者の口封じや抹殺が優先された。


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