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2019年9月2日

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ローレンス・ピーター、BBCニュース

ベルンハルト・アルプ・シンドバーグ氏は、セメント工場の警備員だった。しかし中国では「輝けるブッダ」や、「デンマーク人の英雄」と呼ばれている。

シンドバーグ氏は、1937年に旧日本軍が中国東部の南京に侵攻した際に起こした虐殺から、何千人もの中国人を救った。ただ、デンマークではやっといま、国民的英雄の待遇を受ける。

彼の銅像が建てられ、8月31日に除幕式を迎えた。シンドバーグ氏の死から36年近くたっての式典だった。

高さ3メートルの銅像は南京市からシンドバーグ氏の故郷であるオーフス市に贈られたもので、中国の尚荣氏と傅礼城氏、デンマークのレネ・デスメンティク氏の3人のアーティストの共同制作。除幕式には女王マルグレーテ2世も参加した。

シンドバーグ氏の勇敢な行動は、1200人のユダヤ人を工場で雇用してナチスドイツのホロコーストから救い、映画にもなったオスカー・シンドラー氏とも比較されている。

シンドバーグ氏は何をした?

後に「南京大虐殺」や「レイプ・オブ・南京」とも呼ばれるようになった旧日本軍のよる惨事を目撃した時、シンドバーグ氏はわずか26歳だった。

オーフス市のアーカイブを管理しているソレン・クリステンセン氏によると、シンドバーグ氏は当時、南京郊外のセメント工場でドイツ人とともに警備員として働いていた。シンドバーグ氏はこの工場に、6000~1万人の市民をかくまい、治療などをほどこしたという。

中国は、シンドバーグ氏に助けられた市民は約2万人に上るとしている。

クリステンセン氏は、シンドバーグ氏は「完全に忘れ去られ、貧困のうちに亡くなったが、デンマーク最大の英雄かもしれない」と語った。

同僚だったドイツ人のカール・ギュンター氏も、中国人のために仮設のキャンプや病院を作ってシンドバーグ氏を助けたという。

2人が働いていた工場は、デンマークのFLスミスという企業が建てたもので、シンドバーグ氏は1937年12月に雇われた。日本の南京侵攻の直前だった。

旧日本軍はその後、6週間にわたって南京で暴挙を繰り広げた。捕虜や市民を拷問し、レイプし、殺害した。この虐殺による死者は30万人に上るとみられている。

被害者の多くは女性や子どもだった。レイプされた女性は約2万人に上るとされる。


多くの中国人目撃者に加え、シンドバーグ氏のような現地にいた西洋人も、この残虐行為を記録している。

一方、日本の政府関係者や歴史学者は戦後、死者数について異論を唱えており、中国側を怒らせている。

シンドバーグ氏は空爆の標的にならないよう、セメント工場の屋根にデンマークの国旗を描いた。また、ギュンター氏とともに、デンマーク国旗とドイツ国旗を工場の周りに並べ、日本軍が立ち入らないようにした。

当時、日本はデンマークやナチスドイツとは友好関係にあったため、両国の国旗には敬意を示していた。

シンドバーグ氏についての著書があるペーター・ハームセン氏は、「戦争の前、シンドバーグ氏に特別なことは一切なかった」と話した。

「身長は172.5センチと、1930年代後半のデンマーク人男性の平均。学校での成績も普通だった。しかし1937~38年、南京の暗い冬の間に、普通でないことが起きた。日本軍のひどい残酷さを目の当たりにして、シンドバーグ氏は何かしようと決めた」

シンドバーグ氏を知る人の証言

当時15歳の少年だった周仲兵氏は、「デンマーク人が作った難民キャンプがあった。キャンプには警備員がいて周辺をパトロールしていた。日本人がきて騒ぎを起こすと、デンマーク人がやってきて止めに入った」と話した。

ハームセン氏が取材した別の中国人女性、郭十妹氏は1937年当時25歳の農婦だった。

「日本人が難民キャンプに来ても、外国人(シンドバーグ氏)が外へ行って話してくれた。少しすれば彼らは立ち去った」

「日本人が女性を求めて来ると、その外国人は(デンマークの)国旗を掲げた。それで少し会話をすると、日本人はきびすを返して去って行った」

シンドバーグ氏は友人への手紙に、南京大虐殺のショックをつづっている。

「そこら中にどれだけの血が流れているか想像もできないと思う。8月以降、私は戦争の恐怖をいやと言うほど知る機会に恵まれた。血、血、そしてさらに血だ」


南京大虐殺を調査している中国人ジャーナリストの戴袁支氏は、セメント工場の難民キャンプの環境は劣悪だったと指摘する。

「多くの人々が隣り合って立ったり座ったりしていた。小屋は密接していて、トイレのためのスペースすらなかった」と中国の新聞・深圳日報に書いている。

シンドバーグ氏の生涯

シンドバーグ氏は基礎教育しか受けていない。10代前半で退学して海外へ行き、船でさまざまな仕事に就いていた。1931年にはフランスの外国人部隊に入隊したものの、数カ月で離れている。

中国には1934年にたどり着いた。デンマーク製のライフルの実演を行っていたが、その後、イギリスの外国特派員フィリップ・ペンブローク・スティーヴンス氏の運転手となった。スティーヴンス氏は1937年11月、旧日本軍の上海侵攻を取材中、日本の機関銃で殺された。


シンドバーグ氏は南京で目撃した惨劇を記録し、その直後にアメリカに渡った。

第2次世界大戦ではアメリカの商船隊に入隊していた。その後はカリフォルニアに住み、南京での悲劇についてはほとんど語らなかったという。

シンドバーグ氏は1983年に亡くなっている。


南京の追悼施設では、シンドバーグ氏にちなんだ黄色いバラが育てられ、シンドバーグ氏の英雄的行為が称えられている。このバラは、デンマークのロザ・エスケルンド氏によって開発された。

ハームセン氏はBBCの取材に対し、シンドバーグ氏は「中国の難民に対して扉を開けたことで、比ゆ的に、自分自身の心の扉も開けたのだと思う」と話した。

「それがシンドバーグ氏の物語を普遍的なものにしている。それは、極限状態にいる人間にとって何が大事なのかということだ。巨大な不正を前にした時、自分がどう反応するかなど誰にも分からない。目をそらすのか、隠れるのか、それとも行動を起こすのか?」

「幸運なことに、ほとんどの人はこういう試練に向き合うことはない。シンドバーグ氏は立ち向かわなくてはならなかった。そして合格した」

(英語記事 Danish hero who rescued Chinese from massacre

提供元:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357

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