チャイナ・ウォッチャーの視点

2019年9月5日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

 香港の混乱は本稿執筆時(9月3日)に至っても一向に収束の気配を見せない。

(paitoonpati/gettyimages)

 授業ボイコットは一部の中学高校にまで及び、ついにゼネストまで口にするようになった。こうなると当初の狙いであったはずの「逃亡犯条例」改定反対を遥かに超え、なにやら過激な行動に奔ることが自己目的化してきたように思えてしまう。

 一方の香港政府だが、収拾策は裏目に出たままで有効策は打ち出せそうにない。1997年の返還前に多くの住民が望んだ「港人治港(香港住民による香港統治)」は夢のまた夢。たしかに「一国両制」は「高度な自治」を掲げる。だが、それは絵にかいたモチに過ぎない。実態は「京人治港(共産党政権による香港統治)」であり、極論するなら林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官には“雇われマダム”以下の権限すらも与えられていない。後任の予定が立たない以上、「京人」が断固として辞めさせてくれない。だから当然、辞めたくても辞められない。

 初代の董建華から現在の林鄭月娥まで香港政府トップの行政長官人事は、北京奥の院の権力闘争に左右されてきた。じつにワリの合わないポストである。であればこそ、敢えて火傷を覚悟で火中の栗を拾うような“愛国同胞”が容易く見つかるわけはないだろう。

 こう見てくると、当面は警察力に頼って突発事態の暴発を未然に防ぎながら時間稼ぎをするしかない。もちろん警備当局の忍耐が、いつ「回帰不能点(ポイント・オブ・ノーリターン)」を越えるのか。やはり予測は不能だ。

 おそらく習近平政権は思いも掛けなかった抵抗を苦々しく思い、ここまで混乱収拾が長期化することは想定できなかったはずだ。米中貿易戦争を抱えている状況下では、やはり二正面作戦は無理というもの。国際社会から「天安門事件の再演を危惧する」などと事前に警告されたら、強硬措置による一挙解決には二の足を踏まざるを得ない。

 天安門事件の際に欧米による非軍事的手段による政権転覆を「和平演変」と呼び、民主派の背後に欧米諸国の策動ありと声を荒げて非難した中国政府は、今回も欧米諸国に対し「内政干渉するな」と抗議の声を上げる。だが、香港問題は純然たる内政の範疇に収まる問題ではない以上、さしもの一強体制も軽々しく動くわけにはいかないだろう。

 「光復香港・時代革命(本来の香港を取り戻せ。いまこそ革命だ)」を掲げて街頭で過激行動を展開する若者は、文化大革命初期に「革命無罪」「造反有理」に狂奔した紅衛兵に重なる。「民主化と自由」を訴える姿は、1989年の天安門広場に結集した若者にも似ている。

 こう考えるなら現在の香港は文革と天安門事件という現在中国が経験した2度の未曽有の政治的激動を同時に体験しているようなものだから、やはり衝撃は計り知れない。文革初期の紅衛兵と1989年6月の天安門広場の若者を包んだはずの“昂揚感と恍惚感”を、おそらく香港の若者も追体験しているのではないか。

 香港における混乱が伝えられるや、我が国のメディアは衝突現場におけるハデな状況から事態の背景の解説、さらには未来予測までを衝撃的に伝える。さすがに天安門事件に見られた強硬手段による事態収拾を支持する声は聞かれないものの、なかには香港の独立・民主化から習近平政権の退陣、さらには共産党政権崩壊から中国民主化までを早々と大胆に予測する向きすらある。

 香港問題に対する我が国メディアのこのような対応振りを形容するなら、さしずめ百花斉放・百家争鳴、いや有態に言うなら喧々諤々・希望遊戯といったところだろう。

 8月も終わりに差し掛かって「民主化のジャンヌダルク」が話題になったが、彼女の姿に1989年6月の熱狂の天安門広場で颯爽たる振る舞いをみせた民主化指導者の柴玲を思い起こしてしまう。あの時、柴玲は中国における「民主化のジャンヌダルク」と報じられていたはずだが、大混乱に紛れて中国を脱出しフランス経由でアメリカへ。その後はコンピューター会社を経営しているとか。

 「いまは教室で勉強している時ではない。先生には申し訳ないが街に出る」との学生の声に沈黙するしかなかったといった趣旨の香港大学教員の発言も報じられたが、ふと半世紀ほど昔の東大紛争を思い出した。当時の東大全共闘の若者の心情を、後に作家になった橋本治が「とめてくれるなおっかさん、背中のいちょうが泣いている、男東大どこへ行く」と戯画化したことを覚えている。

 香港大学の学生の“決然たる行動”にも通じることだが、若者だけで自らの“自己犠牲ロマン”を現実政治の力に転化することは至難であり、いずれ大人の政治に利用され易く、一過性の自己満足に終わってしまいがちだ。そのことを東大紛争を含む「70年アンポ」によって、日本社会は思い知らされたのではなかったか。

 やはり新聞や雑誌は血気に逸る若者を“煽ること”に、TVは視聴率競争に奔るべきではないだろう。

 そう考えている折りに目にしたのが廖亦武『銃弾とアヘン』(白水社2019年)である。

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