2024年4月20日(土)

オトナの教養 週末の一冊

2012年4月26日

 しかし、調べていくと松下さんはフランスからの独立を目指す「影の指導者」であるとフランス政府からは睨まれていた。実際に、松下さんはクオン・デのベトナムでの「現地代行人」と秘かに呼ばれ、彼の経営する大南公司は「昼は商社、夜は革命家の秘密基地」と囁かれていました。また、松下さんの盟友であり、アジア主義者としてアジアの革命勢力を支援した大川周明の大川塾出身の若者の多くは大南公司で雇われベトナム独立のために動きました。

――松下さんは15歳で天草からベトナムへ向かいました。その頃、多くの日本人が海外へ出稼ぎに出ていましたが、そのようなハングリーな日本人がいた時代背景をどうお考えですか?

牧:明治の開国以降、世界に散っていった日本人は、天草や島原の出身者が圧倒的に多い。それは天草や島原の土地柄が影響していると考えています。

著者の牧久氏 (撮影:編集部)

 ご存知のように、天草は天草四郎で有名なように隠れキリシタンが非常に多かった。松下さんが生まれ育った大江村は、かつては村民の約7割がキリシタンでした。東北地方などでは飢饉が起きると「間引き」と言って生まれてきた子どもを殺していたんです。しかし、天草ではキリスト教の影響もあり、間引きをせず、生まれた子どもはみんな育てていた。また、痩せた土地ですが唐芋が収穫できました。海が近いので魚も採れた。食べ物に困らないこと、間引きをしないこともあり、天草では江戸時代の後半から人口が急激に増えたのです。しかし、それだけの人口を支えるだけの仕事がない。そこで、天草の人たちは海外へ出稼ぎに出るしかなかったのです。

 海外へ出稼ぎに出た女性の中には「カラユキさん」と呼ばれ、シンガポールやベトナムの娼館で稼いでいた人たちもいました。その中には成功した人もいましたが、多くの方が悲惨なうちに亡くなられました。戦前のハノイやサイゴンの在留邦人同士の共通語は天草弁だったそうです。それだけ天草出身の人が多かったということでしょう。

 松下さんと同郷である赤崎伝三郎という人物は、海外へ出稼ぎへ出て、最終的にはアフリカ東岸のマダガスカル島までたどり着き、バーを開いた。日露戦争では、日本海へ向かうロシアのバルティック艦隊がマダガスカル島へ入港し、それを目撃した赤崎はインドの日本総領事館へ打電、日本の勝利に貢献したという話も残っています。現代の若者が内向きと言われていますが、当時の若者は男も女も体ひとつで海外へ出て行きました。

――本書のもうひとりの主人公であるクオン・デのように祖国を追われて日本で祖国独立の夢を追い、日本人に匿われていた人たちがいました。新宿・中村屋で匿われていたインド独立の闘士・ラース・ビハリ・ボースさんは有名です。他にも自国の独立を目指し、日本で匿われていた人はいたのでしょうか?

牧:中国の辛亥革命で日本に亡命してきた孫文らを犬養毅、頭山満、宮崎滔天、日比谷の松本楼の梅屋庄吉などが支援したのは有名です。新宿・中村屋の相馬愛蔵夫妻は犬養や頭山に頼まれボースやクオン・デを匿い支援したのです。ベトナムの独立を目指すクオン・デも犬養や頭山をはじめ大川周明、松井石根といった大アジア主義者たちが支援し続けたのです。戦後、GHQはこれらの大アジア主義者たちを戦争を主導したファシストとして“追放”します。しかし、彼らの思いというのは、植民地支配されていたアジアの国々を解放するというものでした。つまり、白人支配からの脱却だったのです。


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