2024年4月19日(金)

故郷のメディアはいま

2012年9月19日

 MBCサービスはその後テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」から始まる家電ブームに乗りステップ・バイ・ステップで成長を続け、88年には当時県下で最大の大型店をオープン、大手スーパーも注目するビッグストアーになった。市内繁華街には南日本芸術学園(72年MBC学園として独立)を開設。華道、茶道に象徴されるカルチャースクールのほか、講演会や音楽会などの各種イベント、社員教育の分野まで広げていった。だが、駐車場つきの郊外型店舗が主流になるとすぐ事業売却してしまった。

現会長が語る事業多角化成功の要因

 昭和から平成へと時代は移り、「自治体の中長期計画=街づくり、地域活性化政策」が注目され始めると「地域振興シンクタンク」をキャッチフレーズにMBC総合研究所、イベントの企画・立案、映像ソフトの制作などを行うMBCサンステージを設立していった。MBC総研はその後南日本新聞との提携により、南日本総研として発展的に解消している(92年10月)。これは鹿児島地区4局目の鹿児島讀賣テレビ開局(94年4月)を睨んでの対応だった。これにより鹿児島では、町おこし・村おこしのための企画・調査などを南日本総研が担当、エンタープライズは実際のイベント企画や映像制作業務を担い、MBCが報道・情報番組を含め全体的にバックアップする体制が出来上がった。

 ところが、自治体のこうした事業計画がその財政危機と相まってしぼむと、「5年前にシンクタンク事業から完全撤退」(同社関係者)してしまった。

 鹿児島県におけるMBCとそのグループ企業の存在感は圧倒的である。93年1月、関連事業を統括する取締役役員室長兼経営企画室長の姶良哲郎(その後代表取締役社長、現在は会長)に、事業多角化成功の要諦を尋ねたことがある。答えは「列島改造やバブルなどのブームに便乗するような事業はしていませんからね。あくまでも本体と関わりの深い事業であること、地域貢献に関係した事業に絞っていますから。基本的に各事業のスタートが早く、外部を含むしっかりした人材を配置して、片手間ではなく専業的にやってきたことがポイントでは」というものだった。この当たり前のことを実行することが難しいのだが。


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