チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年11月16日

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平野 聡 (ひらの・さとし)

東京大学大学院法学政治学研究科教授

1970年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授。アジア政治外交史担当。著書に『大新帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社)、サントリー学芸賞を受賞した『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)がある。

 したがって、このようなチベットと清の関係は、決して近代的な主権概念では割り切れない。「チベットが完全無欠な独立自主の主権国家として、何者の介入も受けずに存在してきた」といえば、それは実態と異なる。「清=中国が完璧に国家主権をチベットに及ぼしてきた」といえば、そもそも前近代におけるチベットと「中国」の関係がせいぜい横並びの同君連合に過ぎないこと(「中国」も満洲人皇帝によって支配されていた)、そしてチベット政府が内政・軍事を適切に処理し、「事実上の自主」を保ってきたことに照らして不正確である。チベットは他の朝貢国と同じように自主的な政府を持っているが、清の皇帝との関係はチベット仏教で結ばれた特別なものであり(明らかに朝貢国よりも高い待遇である)、清もチベットも長年互いにそのような関係に甘んじていた(少なくとも、19世紀半ばまでは強引に変えようとしなかった)。

「漢化」を強いた近代中国

 しかし、19世紀半ば以降近代国家主権、そして国民国家の観念がアジアを覆うようになると、このように曖昧な関係は不可能となった。英露の角逐がユーラシア規模で展開すると、チベットもその最前線となったし、清が従来抱え込んでいた朝貢国は下関条約による朝鮮の完全独立を最後に失われていった。すると、いつの間にか満洲人に代わって漢人が主導するようになった清にとって残された選択肢は、辛うじて列強諸国が「理藩院管轄地域は清の主権のもとにあるもの」と遠慮していたチベット・モンゴル・新疆に対して強力に国家主権を及ぼすことしかない。そして、その内側に住む全ての人々に「中国人」としての意識を植え付ければ良い、と考えた。

 そこで、正式に国号を大清から中国に改めるとしても、その内部の構成原理については清のそれと同じく、皇帝あらため中央政府のもと、漢・満・モンゴル・チベット・トルコ系ムスリムが対等な関係を維持し、それぞれが独自の内政を行うことで連邦制的な国家となるのであれば、余り大きな問題は起こらなかったかも知れない。

 近代中国ナショナリズムはその道を拒んだ。西洋・日本から輸入した近代文明で武装した漢人ナショナリストは、その他の「後れた」民族を上から指導して「漢化」の道に導き、身も心も中国人とすることで、大国民としての喜びを享受させようとした。

 こうなった以上、自らの文化的伝統に強い誇りを持つチベット人(あるいはモンゴル人・東トルキスタンのトルコ人)に残された選択は独立しかない。もはや清・近代中国は仏教(またはイスラーム)を保護せず、彼らと「中国」が横並びであることを無視する以上、そんな「中国」に黙って組み込まれるいわれはない。実際、1911年の辛亥革命=清の崩壊を機に、モンゴルとチベットは独立を当然のように選択した。

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