チャイナ・ウォッチャーの視点

2012年11月19日

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平野 聡 (ひらの・さとし)

東京大学大学院法学政治学研究科教授

1970年、神奈川県生まれ。東京大学法学部卒業。東京大学法学部教授。アジア政治外交史担当。著書に『大新帝国と中華の混迷(興亡の世界史17)』(講談社)、サントリー学芸賞を受賞した『清帝国とチベット問題 多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会)がある。

*前篇はこちら

突発的なものでは決してないチベット動乱

 1950年前後に生まれた国際政治の隙間を毛沢東に衝かれ、活路を絶たれて自立を失ったチベット。では敗残を重ねたチベットが中国に調印させられた「十七条協定」が、果たして中共の主張する通りに「帝国主義からの平和的な解放」であったのか? 勿論否である。

写真:十七条協定の書面(「西蔵歴史檔案匯萃」(文物出版社))に掲載、筆者提供)
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 そのことを最も生々しく物語るのは、双方代表がサインし押印した「十七条協定」の正文そのものである(中国が出版した『西蔵歴史檔案匯萃』に掲載)。チベット代表団は、交渉過程の強引さに不満を抱き、自ら持参した印鑑の使用を暗に拒否した。そこで中国は、チベット側代表団全員に対し、中国側代表団全員の印鑑と全く同じ大きさの印鑑を与え、押印させた。それはあたかも全員が同じ三文判を手にした如く、極度に不自然な「統一感」が紙の上に演出されたかのようである。一体誰が、かくも安直な作為に満ちた紙片を、「帝国主義から解放するため」の誠実な交渉の結果であると信じられようか?

 しかし、いくら圧迫に満ちたものでも、ひとたび相手から形だけでも譲歩を引き出せば、その瞬間から「譲歩したのは我々が正しいからだ」と主張する「根拠」を手にしたことになる。中共はいま尖閣問題をめぐって日本に「尖閣の領有権に関する争いがあることを認める」よう譲歩を迫っている。それは「十七条協定」を結ばされたチベットと同様、「主権あるいは《核心的利益》をめぐる中共の立場こそが正しいからこそ日本は譲歩した」と将来にわたって主張するために他ならない。

 この結果、チベットはどのようにして世界史上まれに見る混乱に突き落とされたのか? 結論からいえば、《核心的利益》として狙いを定めた対象については、完璧な主導権を握り、異議を唱える相手を徹底的に封じ込めるまで、さらなる譲歩を迫り実力に訴える動きは終わらない。何故ならこれは、中共のゼロサム的な、いや中国ナショナリズムの世界観における「敵と我の矛盾」であり、その解決は完全なる圧倒しかないと考えるからである。

 とりあえず中共はこの「協定」において、チベット政府の存続を認めた。しかしそれはあくまで「地方政府」としてであり、しかも将来チベット自治区へ移行するための準備委員会の設立と、それを指導する中共チベット工作委員会の存在とセットであった。

 このような二重政権状態は果たして誰のためにあるのか? 勿論、究極のところチベットを「帝国主義から解放」するだけでなく、「チベット人民を封建的支配から解放し、平等な社会主義社会を実現させる」共産党のためにある。しかし、善良なチベット仏教徒ばかりの社会にあって、真面目に共産主義革命を語りうる者はほとんどいない。そこで、平等という価値に照らして社会主義に僅かでも好意を示した僧侶などエリートを抱き込むことが「統一戦線」の名において進められた。

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