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復活のキーワード

2013年3月19日

 金山というと幕府の完全な直轄事業で、幕府が江戸から無宿人を送り込んで過酷な労働に従事させていたもので、民とは一切関係がないように思われるかもしれない。だが、江戸初期の金山経営はまったく違ったようだ。

 金山の経営手法には「直山(じきやま)」と「請山(うけやま)」があり、山師と呼ばれた人たちが活躍していた。前者は採掘経費は佐渡奉行所持ちで、産出した金銀の40~60%を奉行所が取り、残りは山師の取り分だった、という。後者は経費一切を山師が持った。その代わり10~15%を奉行所に納めるだけで残りは山師の取り分となった。山師は金鉱脈を探し、掘り出す特殊技能を持っていた人たちで、彼らの採鉱権を大きく認めていたわけだ。

 佐渡で金鉱脈が発見されたのは1601年。初期の慶長から寛永年間(~1644年)にかけて生産量は急増。金の年間産出量は推定で500~800キロ、同時に産出される銀は40トン以上にのぼったとされる。この当時の世界有数の金銀山であったことは間違いない。この間の幕府への金の上納高は年間120キロ程度だったことが分かっている。つまり、産出量との差は山師の懐に入り、山師を通じて民間へと流れていたわけだ。

 その証拠に佐渡は大いに賑わった。佐渡金山のある相川には当時5万~6万人が住んでいたという。江戸の人口が80万人、大坂が40万人、長崎は2万人とみられているから、想像を超える大都市が佐渡にあったことになる。ちなみに現在の佐渡市(佐渡全島)の人口は6万3000人だ。

失業対策にも使われた金山開発

 その人口を養うための新田開発も進み、コメの生産も拡大した。金山で水をくみ上げるために使われた水上輪と呼ぶ手動ポンプなどの鉱山技術が、海岸段丘での新田開発にも役立ったという。金山開発によって佐渡の民間も大いに潤ったわけだ。山師たちの財力は大きく、今も山師たちの名前が付いた町名が佐渡には多く残る。また、島内には数多くの大規模な寺院が残るが、これも大名や幕府が寄進したものではなく、鉱山で潤った山師の残したものが少なくないという。新潟県で唯一の江戸時代以前の五重塔は佐渡の妙宣寺にある。

 つまり、民間に高いインセンティブを与えた金山経営によって、金銀の産出量は急増し、その経済波及効果は大きくなって佐渡は繁栄。民間も大いに潤ったのである。


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