2024年4月25日(木)

この熱き人々

2013年3月14日

 誰もそう思ってくれないのが悔しいと笑う。でも、自分が望み、自分が負担したからこそ、すべてを吸収したいと貪欲になれたとも振り返る。

 「ひとりですから。誰かに頼れるわけじゃないから、40年間の資料は記憶するためにも捨てられませんでした。初めてパリコレを実際に見た時は、やはり感激しましたね。それぞれの特徴のあるデザインも布地も色も、こんなにきれいなものがあるんだって思いました。まだ日本とのレベルの差がすごくありましたから、伝えられるものがたくさんある。日本に伝えたいという気持ちになりました」

 おりしも日本は高度成長期に入り、生活にゆとりが生まれて、着ていればいいという時代からファッションへの関心が高まっているものの、何をどう着たらいいのかよくわからない。洋品店のマネキンの上下を一式丸ごと真似してみたり、カジュアルというとゴルフウエアになってしまったり。

 「もうちょっと自分らしく着ることを心がけたいと提案しても、着る物にかまうよりもっとほかのことがあるだろうという雰囲気で、ケチョンケチョンに批判されたり。まだボロは着てても心の錦という感じで、たかがファッションという空気がありました」

 しかし、外国からの情報とともに、洋服がすさまじい勢いであふれ出し、原への仕事の依頼も増え、空気も少しずつ変化してきていた。世界的にはオートクチュールから高級既製服プレタポルテの時代になり、手の届かない夢のページを見るだけでなく、買える服、自分が着られる服の情報が求められるようになる。それに呼応するように、「アンアン」も方向転換していく。「エル」を核に展開するのではなく、ファッションページを独自に作っていく。そこで原に任されたのは「おはなしファッション」という6ページの連載企画だった。女性の生活のシーンに着目して、スタイリスト、編集、ライター、撮影の手配などすべてひとりでこなす。躊躇(ちゅうちょ)なく「やらせてください」と答えた時に、スタイリスト・原由美子の仕事の輪郭ができあがり、確かな一歩が刻まれたことになるのだろう。その一歩が、次の一歩の方向を決め、成し遂げた仕事の成功が次の仕事につながる。前を歩く人のいない草分けは、草を分けて一歩進んだ時に、後ろに道ができているということになる。

 「紹介された服をそのまま買うのではなく情報として生かしてもらいたい。それまでモデルが着ている服の値段は書かれていなかったのですが、私は値段もきちんと書くようにしました。このくらいの品質のものがどのくらいするのかも知ってもらいたかったから」

 「アンアン」のほかにも、当時100万部に近い発行部数を誇っていた「婦人公論」などいくつもの女性誌が原を求め、原の提案するページは、着こなし方、着崩し方、配色の機微、女性の生き方を反映したファッションの広がり、品質と値段の判断など、多方面で読者のファッション感覚を養う手助けになった。


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