この熱き人々

2013年10月14日

»著者プロフィール
閉じる

吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 「芸者は本来結婚とは縁がない日陰の身ですから。奥さんは向島の半玉だった人でね。旦那に赤紙が来た時は隠れて見送りに行ったんだけど、体が弱いこともあってその日に返されちゃった。奥さんに連絡したら、盛大に見送られてみっともないからフミさん(ゆう子)のとこにしばらく行ってなさいと言われて、私のところに3日ほどいて帰りました。私も『お預かりします』と電話してね。いくら奥さんがいい人でも、それに甘えちゃいけないと心掛けていました」

 子どもができた時も、ひとりで育てて迷惑はかけないと宣言して産むことを決めている。人生で一番よかったことは、大好きな人の子どもを授かったことだときっぱり言う。

「一流」の意気地

 しかし、独立を果たし、里菊という名を「ゆう子」に変え、女性として恋と出産という幸せに恵まれた頃は、戦争が国民から平穏な暮らしを奪っていった時期でもあった。浅草花街も昭和19年に閉鎖。翌20年の3月10日は東京大空襲。身重の体で戦火を逃れ、母の機転で命は助かったが、家は燃えた。姉の嫁ぎ先の広島に疎開して7月に出産した直後に、広島に原爆が落ちて姉の夫が亡くなり、再び生まれたばかりの息子を抱いて東京に戻ったその日がまさに8月15日。質屋の蔵に預けておいた着物や三味線は無事で、終戦翌年に再開された浅草花街で子どもを育てながら芸者に復帰したのである。

 子育てを全面的に支えてくれたのは、ゆう子を芸に生きる道に誘った母だった。

 「生後すぐ関東大震災を生き延びたのも、東京大空襲で身重の私を適切な判断で守ってくれたのも、子どもを育てながら芸者として生き抜けたのも、みんなおっ母さんのおかげよ。おっ母さんがいなかったら私は死んでるわよ。本当に感謝してもしきれない」

 息子が小学生の頃、先生に「お母さんは何してるの?」と聞かれ、「母は一流の芸者です」と答えた。日頃、祖母が「お前のお母さんは、芸者をして一生懸命働いてくれるから、おばあちゃんとお前は心配なく暮らせるんだよ」と言い聞かせてくれていたから、息子が自分の母の生き様にプライドを持つことができた。その代わり、母親はそれに見合う姿勢をゆう子にも厳しく求めた。

 「私はお酒が大好きでね。お座敷で勧められると飲んで酔っ払って帰る。母だから甘えちゃって、玄関で寝ちゃったことがあるのよ。そうしたら、子どもにだらしない母親だと思われたくないなら、しっかりしてもらいたいねって怒られてね」

 盃ではなく杯洗(はいせん)で一気に飲んだという武勇伝を持っていたというが、それ以降、大好きな酒を一切断った。だらしない母と言われたくない。言わせたくない。

関連記事

新着記事

»もっと見る