山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2013年11月11日

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 カザフスタンの友人が67歳の若さで永眠した。

バグダッドことBagdad Mukhametovich Shayakhmetov氏 (提供:筆者)

 長年の友人Bagdad Mukhametovich Shayakhmetov氏だ。バグダッドとは足掛け23年間の付き合いだった。バグダッドはカザフスタン共和国の北部にあるウスチカメノゴルスク(現在はウスカメン)のTMK(チタン マグネシウム コンビナート)のリーダーとしての48年間を工場に捧げた。彼は、旧ソ連崩壊後のチタン工場(TMK)を世界有数の最新工場に改造して全世界に名を残した。

 私が始めて工場を訪れたのは1989年。KGB上がりの男を使って秘密軍需都市ウスチカメノゴルスクに潜入してチタン工場にたどり着いた。その時はバグダッドとは会えなかったが、工場の外観を見て一瞥して世界最大級のチタン工場だと分かった。70年代と80年代の東西冷戦の時期には、西側世界の全チタン需要を超えるほどの供給量を一工場で生産していたのである。

 その後、数回現地を訪問して東カザフ州のオマロフ知事のコネでやっとバグダッドと会える算段がついた。知事とバグダッドはカザフ工科大学の同級生だったのだ。

 彼との初めての出会いは、それまで経験したことのない衝撃的な取引で始まった。彼は私の目を見て何も言わずにスポンジチタンの契約書を差し出した。一切の交渉なしに直接ルートの契約書にサインをしたのである。チタンの取引はすでにモスクワの公団ルートで輸入実績があったので品質の問題はなかったものの、価格の交渉はバグダッド側の一方的な条件が提出された。

 「嫌なら止めろ」というYESかNOの二者択一の交渉であった。

 91年のソ連邦の崩壊の時期は、バグダッドにとって最も厳しい時期だった。人々の生活は食料を求めて闇市で物々交換をしたり、ダーチャ(簡易別荘)の菜園で自給自足の生活をしたりすることを余儀なくされた。チタン工場ではロシアやウクライナからの原料ルートが閉ざされたため、工場の生産も存亡の危機にあった。多くの国営企業が閉鎖される中でTMKだけは生産を続けた。ドイツ向けの需要が堅調であったことに加えて、日本の需要家がTMKの品質管理の良さを認めてくれたのである。TMKにとって、軍需から民需への転換は容易ではなかったが、航空機関連企業がいち早くカザフチタンに注目したのである。

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