挑み続ける65歳のアスリート

車いすテニスプレーヤー(元車椅子バスケ) 星義輝さん


大元よしき (たいげん・よしき)  ライター

1962年東京生まれ。外資系IT企業からライターに転身。スポーツのほか、歴史関連も執筆中。著書に『あの負けがあってこそ』『命のバトン―自閉症児と個性派不登校児の教室』『1万回の体当たり―タックルマン石塚武生 炎のメッセージ』(以上ウェッジ)、『一緒に見上げた空』(扶桑社)。

障害者アスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

世界最高峰の障害者スポーツ大会『パラリンピック』を目指すアスリートたちの「乗り越えてきた壁」に焦点を当て、スポーツの価値や意義を問うと共に障害者アスリートを取り巻く環境について取材していく。

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「失ったものを数えるな 残されたものを最大限に活かせ」

 これはパラリンピック生みの親と言われるストーク・マンデビル病院国立脊髄損傷センターの所長ルードヴィッヒ・グッドマン博士の言葉である。

 1948年、博士の提唱により第二次世界大戦で脊髄を損傷した兵士達のリハビリのために行われた車椅子の競技会が、後にパラリンピックへと発展を遂げた。

 「18歳でストーク・マンデビル競技大会に出場したとき、グッドマン博士のメッセージに出合いました。パラリンピック発祥の地で出合った言葉に感動しましてね、それが今まで自分を支え続けてくれました」

やんちゃな幼少期
這うようにして通った小学校

 元車椅子バスケットボール&車椅子テニスプレーヤー、星義輝。

 昭和23年、福島県会津柳津町に7人兄弟の6番目の子として生まれる。

星義輝さん

 星は2歳の時にポリオ(小児麻痺・急性灰白髄炎)に罹患し、麻痺のため下半身の自由を失った。国内でポリオ患者がピークを迎えたのは昭和35年頃と言われている。その翌年から海外からワクチンが輸入され、ポリオ患者の発生が急速に低下していった。しかし、昭和25年当時はまだワクチンがなかったのである。

 当時、星が住んでいた地域には車椅子も松葉づえもなかったため、毎朝近所の友達にランドセルを持ってもらいながら、這うようにして小学校に通った。

 「校舎の2階に上がるときも四つん這いで階段を上ったし、降りるときも逆さまになって這っていました。物心ついたときからそんな生活をしていました。田舎に生まれてよかったなぁと思います。野原や山で遊んでいましたし、手だけで木登りもしました。川で遊んでいるときにおぼれて、『もうダメかな』なんて思ったこともありましたし(笑)、雪の深い冬はミカン箱にソリを付けて遊んだこともありました。取っ組み合いのケンカもしました。だから、歩けないという以外は他の小学生と同じように遊んでいたんです。都会だったらそんなことさせてもらえなかったんじゃないかな」と星は懐かしそうに笑った。

 だが、小学4年生になると「いつまでも這っていたんではダメだ」と思い立ち、裏山の木を切って杖代わりにして歩くようになった。

 卒業後、いったん普通中学校に進学したが「少しでも足を治したい」と中学1年生の半ばから養護学校に編入した。

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「障害者アスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた」

著者

大元よしき(たいげん・よしき)

ライター

1962年東京生まれ。外資系IT企業からライターに転身。スポーツのほか、歴史関連も執筆中。著書に『あの負けがあってこそ』『命のバトン―自閉症児と個性派不登校児の教室』『1万回の体当たり―タックルマン石塚武生 炎のメッセージ』(以上ウェッジ)、『一緒に見上げた空』(扶桑社)。

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