この熱き人々

2014年1月20日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

 「全然舞い上がらない。世界はすごいなあと思った。ピアノの音色も弾くことの語彙力の多さ深さも、すべてすごすぎて舞い上がるどころか逆に目が覚めたって感じ。自分がチックの前では赤ちゃんだと悟らされて、この先を走る燃料をもらったと思いました」

 その視線の先に世界を求めていた上原には、いつか留学したいという思いがあり、高校卒業後は海外へという道もあったはずだが、あえて日本にとどまった。

 「まだ海外で何をどうしたいのかプランが描けなかった。自分の気持ちがマックスになるまで待とうと思ってました。その時が最も吸収する力が高まる時だから」

 上原が大学を中退してボストンのバークリー音楽大学へと旅立ったのは20歳の時である。

 「その頃、CMの音楽制作のアルバイトをしていて、フルオーケストラの曲を作る仕事がきたんです。いつかはフルオーケストラと一緒にやりたいと思ってはいたけれど、まだ勉強していないしどうしようか迷いました。その時に制作会社の人が『誰にでも始まりはあるんですよ』って言ってくれた。この言葉は、今でも何かやる時の私のキーになっています。やらないと言ったら終わっちゃって始まらない。それならやれるフリをしてでもやったほうがいい。その時は必死で勉強してすべり込みセーフで、クライアントにも喜んでもらえました。でも、いつまでもぎりぎりセーフはイヤだ、作曲、編曲を勉強しようという気持ちが膨れ上がって、今だ! と留学を決断しました」

 自分の中で徐々に高まっていた熱が、この出来事に反応して、明確に気持ちが動いた。バークリー音楽大学の作曲・編曲科で学びながら、学内や地元でのライブ活動を精力的に行っていた上原に思いがけないところから大きな波が押し寄せたのは、在学中の23歳の時。中間試験で提出した既成曲を編曲した作品に感動した教授から、オリジナル作品も聴かせてほしいとリクエストされた。CDを持参すると、ピアノを弾いているのは誰だと聞かれ、自分だと答えると、友人に聴かせるからと教授はCDを預かった。聴かせた友人がシカゴ出身の名ピアニスト、アーマッド・ジャマルで、ジャマルの紹介でジャズのメジャーレーベル「テラーク」と契約。音楽大学を首席で卒業した03年にはデビューアルバム「アナザー・マインド」をリリースして大ヒット。鮮やかな世界デビューを果たしている。

 流れの表面を辿ると、人から人への繋がりでトントン拍子に道が開けているように感じられるが、偶然や幸運だけで扉が開くほどアメリカの音楽界は甘くない。

 「アメリカで活動したい、音楽家として食べていきたいという強い思いがありましたから、球は投げられるだけ投げていました。入学時からどんどんデモテープを送ったし、CDも作ってクラブのライブでミュージシャンが来るたびに渡したし。だから先生からオリジナルをと言われた時もすぐに渡せたんです。ライブハウスや地元のレストランで弾く時も、いつも全力投球でした」

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