2024年4月16日(火)

パラアスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2014年1月30日

 当時は日本代表の強化だけを進めて中間層の強化をしてこなかったんです。だから次を継ぐ世代がいない。極端なことを言ってしまえば、お金と時間があって手を挙げれば日の丸を背負える時代があったんです。それを見て関東だけでやっていてはいけない、もう一度関西に戻って車椅子ラグビーを根付かせたいと思ったんです。それに賛同してくれた人がいて姫路市でwebデザインの仕事をしながらラグビーを続ける環境を得ました。

初瀬:障害者スポーツっていろいろな関わり方や楽しみ方があっていいと思うんですが、どの競技にもリハビリからチャンピオンシップスポーツに分かれる転換点があると思うんです。

 選手間で温度差があるなか、アテネ以降、三阪さんたちの活躍がなければ、今の車椅子ラグビーの強さはなかったかもしれませんね。今ではメダルが期待される競技になっていますから。

 そうした活躍は安定した環境の中で両立できたからですか?

三阪:それが違うんです。webデザインの会社は仕事の折り合いがつかなくなって、大手服飾系企業の特例子会社に2007年に転職しているんです。仕事内容はパソコンを使った事務作業でした。大会等で遠征があれば出張扱いにしてもらったり、休暇を別に用意してくれたりもしました。当時は若くてスポーツができるという環境を何よりも求めていた頃なので良い条件でした。

 そのような環境の中で途中結果を出しながら北京パラリンピックを目指すことができたのですが、リーマンショック以降、僕も上司との面談で「これからは今まで通りのサポートはできない」と言われました。その後異動になり遠征の時も有給休暇で行くことになったんです。

 それに給与体系が変わってアルバイト的な条件になりました。凄い葛藤でしたが、それでも毎日遅くまで残業しながら働いていました。

初瀬:リーマンショックですか。それは大きな転換点ですね。出張扱いから、有給休暇になり、有休がなくなったら欠勤になる。どんどん条件が厳しくなっていく……。

 会社の業績の悪化に伴い条件が厳しくなって、その後どうなりましたか?

三阪:それで2010年に転職の話をいただいて、2011年の4月にバークレイズにアスリート雇用という形で就職しました。バークレイズの良いところは東京周辺で仕事をするにはお金がかかるという理解から、障害者雇用の平均賃金よりも高い金額を提示してくれたことです。遠征費は出ないのですが、ウィルチェアーラグビー連盟からのサポートを受けながら上手くやっています。ここで実感したことは、ラグビーをやってきたことが評価され仕事を得ることができたということです。障害者アスリートが認められたということでもあります。


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