山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2014年3月12日

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 新年早々マレーシアとシンガポールに出張した。目的はマレーシアのレアアース工場の見学と、シンガポール現地法人の新年会である。マレーシアのペナン島にある得意先の工場にも新年の挨拶に行った。

プラナカン博物館での筆者

 ついでにペナンの有名なプラナカン博物館も見学した。プラナカン博物館は福建華僑の大富豪チェン・ケンキー氏の豪奢な大邸宅の跡である。1786年以降のペナンは英国の占領時代になり、東西の絢爛豪華な文化が混ざり合い不思議な異空間都市となった。博物館にはベネチアングラスやペルシャの絨毯、伊万里や有田の陶器、そして中国の清代の仏像や書画などあらゆる芸術品がところ狭しと飾られているのだ。

 プラナカンとは15世紀後半から移住してきた中華系移民の末裔のことである。福建華僑が多いのだが、当時は英国やオランダの占領下だったマレーシアやインドネシアに溶け込んだ人々である。彼らは4世代にわたってペナンやマラッカ海峡やシンガポールの英国植民地において英語、北京語、福建語、マレー語を使いこなして経済的な自立を果たし大成功を収めた結果、プラナカン文化を今日に残したのである。

 さて、日本人として私がこのプラナカン文化を見ていて感じることは、なぜ日本人の昔の移住者がこの東南アジアで日本人町まで作りながら歴史の中に埋没してしまったのかという疑問である。

 13世紀から16世紀にかけて活躍した倭寇(わこう)は、東アジアや東南アジア地域において海賊行為や密貿易を行った日本の貿易商人のことである。ポルトガルや英国やオランダがこの地域を支配するずっと以前から日本の倭寇は活躍していたのである。

 東南アジアで隆盛を極めたアユタヤの日本人町の歴史は16世紀ごろから始まった。関ヶ原の合戦以降にタイのアユタヤ王国が日本の侍を傭兵として雇ったので、一時期は日本人が3000人までにも増加した。その中心的な人物が山田長政である。1630年ごろには山田長政の勢力を恐れたためにアユタヤ王国は山田長政を暗殺し、そのあとは勢力が一気に衰えてしまった。

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