2024年4月20日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2014年7月15日

 2012年11月の第18回党大会において、胡錦濤は全ての権力の座から退いた。江沢民のように中央軍事委員会主席の座にしがみつき、影響力を行使しようとはしなかった。2012年9月の日本政府による尖閣諸島購入後、人民解放軍から胡錦濤に対して「中央軍事委員会主席に留まるよう」要請があったが、胡錦濤はこれを断っている。

 「習近平体制は、5年後の党大会時に定年のために現職を退く者が多く、結局、胡錦濤が再び実権を握ることができるという自信の表れだ」という主張もあるが、制度化の努力を江沢民に阻害され続けた胡錦濤にとって、制度を無視して権力にしがみつくことは自らの主義を否定することになる。

 人民解放軍が胡錦濤に中央軍事委員会主席の座に留まるよう要請したのは、軍内を江沢民派で固めていた方が日本に対抗するのに有利だという判断があったかもしれない。胡錦濤が完全に引退したのは、江沢民の影響力を排除する目的もあったと考えられる。江沢民を道連れに引退したのだ。

 また、江沢民は、中央政治局常務委員の人数を9人から13人に増やすことによって江沢民派の優勢を保とうとしたが、胡錦濤はこの目論見も潰した。自身の引退時に、政治局常務委員を9人から7人に削減したのだ。習近平は、出発時から江沢民の影響力を最小限に抑えることができたのである。

軍と手打ちを済ませた上で徐才厚を起訴

 それでも習近平指導部が改革を進めるためには、さらなる江沢民の影響の排除が必要だった。現在の党・政府機関や国有企業等の利益団体の幹部は皆、江沢民の影響下で出世しているのだ。これらを全て排除したのでは、党も政府も機能しなくなってしまう。習近平主席は、江沢民の影響を排除しつつ、党・政府の機能を維持しなければならない。落としどころを見つけて、「手打ち」をしなければならないということだ。

 徐才厚事案も、周到に根回しされている。2012年12月、総後勤部副部長・谷俊山中将(当時)に対して調査を開始し解任した。徐才厚は谷俊山の後ろ盾である。調査に1年以上の時間をかけ、2014年3月31日、中国政府・国防部は谷俊山を収賄、公金横領、職権乱用の疑いにより軍事法院に起訴した。

 徐才厚が逮捕されたと報じられたのは6月に入ってからである。徐才厚には、自殺説も流れるほど長い時間、処分を決定することが出来なかった。この期間、習近平主席は、他の軍幹部たちとの落としどころを探っていたのだ。「手打ち」は、目に見える形で現れた。4月2日付の中央軍事委員会機関紙である解放軍報が、七大軍区や海軍、空軍、第二砲兵の司令官など18人の署名入り忠誠文を掲載したのだ。


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