【開業50周年記念】 My Memories of the 東海道新幹線

2014年10月16日

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 70年代の常識では、乾電池は使わなくても性能が劣化する「生き物」と思われていた。松下の製品はその弱点を克服したが、アメリカ人は信じない。日本から1カ月もかけて船で運ぶ時点で、性能が落ちていると判断された。そのうえ「日本の乾電池は粗末な工場で手作りしているのではないか」と、あらぬ疑いもかけられた。

 「実際には、単三電池なら1分に1000個、単一なら1分に600個作れる、世界最高の生産能力を有する工場で作られていました。もちろんオートメーション。しかし、彼らは信じてくれないんです」

 そこで岩谷さんは一計を思いつく。ともかく生産の現場を見てもらおうと、アメリカの大手スーパーマーケットのバイヤーなどを工場のある大阪に招いた。その時に、彼らを新幹線のグリーン車に乗せたのだ。「その頃のアメリカには、時速200キロ以上で走る鉄道なんかありません。しかも超高速で走っているのに、車内が揺れずに、飲み物を置いてもこぼれない。彼らはそのテクノロジーに感動し、乾電池を売る約束をしてくれたものです。新幹線は、技術立国・日本のシンボルでした」

苦心した松下へのルート

 新大阪駅に到着後も、岩谷さんの苦心は続いた。ごみごみした街並みは避け、高速を使って太陽の塔の残る万博会場跡地など見栄えのする場所ばかりを通って、松下の工場まで案内した。「わざと遠回りして、きれいな街ばかり見せただろ」と目論見に気づいたバイヤーもいたが、その心意気を買われて、商談はうまく進んだという。

 こうして松下のアメリカにおける販路が地道に開拓されていった。日本の乾電池の性能が、アメリカ人の隅々にまで知れ渡ったのは、80年代の半ば。アトランタに巨大な乾電池工場を建造した時からだった。

 そんな岩谷さん自身にとっても、若かりし日は新幹線が「夢の超特急」だった。岡山県生まれの岩谷さんが、東京の大学に入学したのは、新幹線の開業と同じ64年。しかし、ひと月1万円の仕送りで暮らしていた学生にとって、東京~新大阪間が2480円もする新幹線(「ひかり」の普通車利用の場合)は、高嶺の花だった。故郷への往復に利用するのは、もっぱら在来線の夜行列車と決まっていた。

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