2024年4月20日(土)

個人美術館ものがたり

2009年7月16日

長女の広美さんと赤瀬川さん

 長女谷内広美さんと学芸員立浪(たちなみ)佐和子さんにお話を聞いた。横須賀の観音崎は、広美さんのアレルギー体質の療養に来たのがはじまりで、谷内六郎はこの海辺が好きになった。喘息の治療には潮風にあたるのがいいそうで、六郎も幼少時は千葉県の御宿(おんじゅく)に行っていたという。住まいは世田谷の方にあったが、ここにもアトリエ的な別宅を構えてよく通うので、自然にこの近所の人とも交流が生れた。谷内六郎さんが砂の上に棒で絵を描いたりしていると、近所の人が面白そうに見ていて、じゃ今度はこれに描いてみてと、紙と筆を持ってきたりしたらしい。

美術館の屋上から望む海

 何だか昔の円空の話を思い出した。あちこち修行して回っていた円空が、一時岐阜の洞穴に逗留して例の仏像を彫りつづけていた。腹が減るとその1つを川にぽんと流す。すると下流でお百姓さんが見つけて、あ、円空さんがお腹を空かしていると、洞穴まで食べ物を持っていったという。やっていることは違うが、何だかそんな関係を想像する。

 

 谷内六郎さんが砂の上に絵を描いていたという話には、しみじみとしたが、長女広美さんによると、六郎さんはどこででもこだわらずに絵を描いたらしい。絵具もふつうに子供たちが使うサクラの12色の水彩絵具などで、子供を膝に乗せて、炬燵の回りや食卓の上や、家族団欒(だんらん)の場でも気にせず描いていた。でも一方で、集中して描いているときには鬼気迫るものがあり、近寄り難い感じもあったという。

 その幼少時から病弱の谷内六郎さんだが、戦時中には軍に召集されたと聞いて驚いた。あの谷内六郎さんが軍隊に……。でもさすがに弱い体で戦地には回されず、傷痍軍人の慰安やその他、絵筆を生かす仕事をしていたらしい。

 生れは大正10(1921)年で、上に兄が5人で6番目だから六郎だ。その兄たちもみんな軍に召集された。年令がみんなその年代に重なったのだ。でも全員が無事復員している。それがふつうであるべきだが、何しろ戦争だから、男兄弟の1人2人が欠けたという話は当り前のようによく聞く。でも谷内家では男兄弟6人がみんな復員できた。三郎さんなどは最大の激戦地に派兵されていたが、自分の意志の力で部下と共に生還したという。

 最近はWBCのイチローのお陰で「持っている」という言い回しがはやっているが、谷内六郎の絵を見れば、「この人は何か持っている」と感じないわけにはいかない。しかしこの男兄弟全員が戦地から無事帰還したと聞くと、「この一族は何か持っている」と思ってしまう。

 考え過ぎかもしれないが、でも谷内家の兄弟の結束は固く、とりわけ病弱の六郎を思いやる力は強い。六郎もそれを強く感じていたから、健康時に工場などで働くことを、いつも喜んでいたという。戦後は一時期四郎さんがやっていた染色工房が忙しくなり、兄弟全員の、家族まで総出で、ろうけつ染めを手伝っていた。その「らくだ工房」が原宿にあったらしい。そんなこともあって、谷内六郎の絵にはろうけつ染めによるものがたくさんある。ろうけつ染めは蝋(ろう)が乾かないうちに早く描く。六郎が絵を描くのが早いのは、そのろうけつ染めで腕を磨いたからだろうという。


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