2024年4月20日(土)

個人美術館ものがたり

2009年8月13日

 ここにはさまざまな作品と、展示の場所がある。メインはもと制作の場であった広場で、そこにたくさんの石の作品が点在している。作品として完成したものもあり、その途中で残されたらしき石もある。そこはキャンバスに描く絵とは違って、素材であるその石が選ばれたときから、既に作品としての性質を帯びている。石は自然物だから、地面に転がっているときから無言の主張を持っている。作者はその主張にじっと見入りながら、その声を強く引き出したり、あるいは別の主張をぶっつけて、闘わせたりする。ほとんど手を入れてないような石もある。ここに並ぶ作品をめぐっていると、それは石との会話、ディスカッション、人生相談のようなものにも見えてくる。

 そういう作家の構えは、石からさらに、石の置かれた環境にも広がる。遠く五剣山を望み、もう一方に屋島のシルエットが控えるこの土地そのものが、イサム・ノグチには作品の核としてあったようだ。仕事で世界各地を飛び回りながらも、この場所が次第に制作の拠点となっていく。古い民家を移築して、作業小屋を造り、棲家を造り、倉庫を造り、石垣を築く。それがいまでは展示蔵になり、事務棟になり、作品個体だけでなく、すべてが作品という庭園美術館となっているのだ。

  でも何か1点となれば、「エナジー・ヴォイド」。ここにある石のいちばんの大作だ。「力」と「空虚」という、現代物理学の始源にさかのぼる二つの言葉を与えられた作品は、簡単にいえば四角いドーナツ状の形をしていて、それがこの重力世界にずっしり、むにゅりという感じで立っている。石の硬さと、その形の柔らかさがどこまでも行き交いながら、置かれた蔵の内壁との対比がじつにいい。これも明治時代の酒蔵を移築したものだ。和というか、日本の端正で素朴な空間がさり気なく周囲を支える。

 それから、脇役かもしれないが、ここに移築して使われている古い民家が、どれも恰好いい。和の要素が斬新で、その構成に切れ味がある。和泉さんによると、やはりただ移築したのではなく、微妙にイサム・ノグチの手が入っているらしい。そうか、それでこんなに端正で、シャープなんだと思った。やはり石の彫刻家だ。どんな素材にも有効な切り込みを入れる。ただ古さをそのまま移築保存するのではなく、新しく再生させているのだ。

 道を挟んで住居にしていたイサム家(や)があるが、建物ではこれが白眉だ。管理の関係で非公開の2階も見せてもらったが、構成的な迫力を感じる。移築の前は武家屋敷だったそうだ。それを基本に、古民家3軒分くらいの材料が使われているらしい。2階の屋根裏の傾斜や、壁際に低く切り込んだ窓など、じつに斬新で嬉しくなった。

イサム・ノグチが竹と和紙でデザインした照明器具「あかり」
*本作品は非公開です

 そのイサム家から少し石段を登ると、裏山みたいな場所に出る。それがパンフレットの地図に彫刻庭園とあるものの一角だ。昔からの裏山をそのままイサム風庭園にしたように見えるけど、ここも以前はまったく違う段々畑だった。それを地形の造成からはじめて、そうとうな年月を要したらしい。丘が一度くびれた上に、さらに小高い築山(つきやま)がある。上には何もないように見えるが、ゆっくり回り込んで登っていくと、一つだけ巨大な卵形の石が、ぽつんと立つのが見えてきた。人の手の入らない荒肌のままの巨石で、黙っていても何かしらの人格を感じる。じつはぼくは数年前に一度来て目にしているのだが、2度目の今回の方が、強く人格を感じた。じっとそこに立っていた人に、再会した、という感動を覚えた。 


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