いま、なぜ武士道なのか

2009年8月15日

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 私にとって、ユダヤ人にとっての希望と同じように生きる力を与えてくれるものが、ほかでもない『葉隠』です。ヨーロッパ人には聖書があるといいます。それはそれでけっこうなことですが、私には『葉隠』のほうがピッタシくるのです。これほど具体的で現実的なものはないと思うからです。空理空論がまったくないからです。どちらがどうという比較はナンセンスではありますが、私にとっては日本語のほうが肌に合うということです。

 さて、その『葉隠』のバックグラウンドについて少々触れてみます。『葉隠』は全11巻1343項におよぶぼう大なものです。この書物は、隠棲した佐賀鍋島藩士・山本常朝(じょうちょう)が7年間にわたって口述したものを、同藩の後輩・田代陣基(つらもと)が筆録しました。常朝は、9歳のときに2代目藩主・光茂公の御側小僧となり、その後、光茂が死去するまで33年の長きにわたってお側に仕えています。

 常朝の本望は、家老になって奉公することであり、そのための精神鍛錬として、彼は当代一級の儒者である石田一鼎(いってい)について儒学を学び、湛然(たんねん)和尚には禅を学んでいました。湛然和尚も鍋島家の菩提寺である高伝寺の住職で、誉れ高い高僧でありました。しかし、光茂の死後は出家をし、北山黒土原(くろつちばる)の草庵に隠棲します。

 一方、常朝の談話を筆記した陣基は、延宝6年(1678)に生まれ、19歳の時、3代藩主綱茂の祐筆役(文書係)となりました。しかし、32歳のときに休職を命じられ、その翌年、黒土原に常朝を訪ねています。俗界から遠く離れて、ようやくにして真実を探りあてたという常朝、深山に入ってやっとのことで人生を発見したと語る陣基、二人はたちまちにして意気投合しました。

 常朝52歳、陣基33歳の出会いです。二人はそれから7年間にわたって談話をし、記録を続けました。こうしてできたのが、世にいう『葉隠』なのです。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味

 師匠である一鼎が神儒仏に通じていたことから、『葉隠』にはその影響が濃く出ています。『葉隠』はその意味で日本人にはもっとも適したものです。『葉隠』といえば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という文言を一番に思い出す人が多いでしょう。ところが、この「死」の意味をめぐって誤解がたくさんあります。

 若者を戦地に送り込み、死ぬことを賛美した過去がそれです。しかしそれは『葉隠』の誤用です。『葉隠』は死を奨励したのではなく、生のあり方を逆説的に表現したものです。どうしてそういえるかというと、「毎朝毎夕、改めては死に」と書いてあるからです。動物の死は、誰がなんと言おうと一回きりです。それを「毎朝毎夕」行えと言っているのです。ここから『葉隠』で言っている「死」は、「生」のレトリックであることがわかります。これほどわかりやすい表現を誤解するのは、誤解したがる人々がいるからです。優れた古典を自分たちの都合で引用しているのです。自分に都合のよい部分だけを借用しているのです。

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