2024年4月20日(土)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2015年6月25日

 「事務所のある大塚から、毎日のようにタクシーで池袋にパチンコしに行っていました。勝ったら焼肉、負けたら弁当。もう、先が全く見えなかった」

 元々クルマは好きだったが、「好き」と「売る」は別物だということに気付かされた。「このままではダメだ」と決意し、1年でこの仕事を辞める。

 翌年、兄の紹介により芸能事務所で働くことになった関屋は、誰もが知っている大物女優のマネージャーとして活躍する。体育会系で礼儀も正しく、体力もある関屋は、芸能界という特殊な世界で様々な人に可愛がられた。毎日が違う現場、違う仕事。関屋は充実した日々を送っていた。

 「様々な経験をしたし、何より面白かった。大事にもしてもらえた。でも、だんだんと、自分がマネージャーというより付き人だという感覚になってきた。“働いている”という感覚がなくなってきた」

 そんなことを考えていたとき、実家の父親が体調を崩した。関屋は愛知県に帰ることを決めた。当時27歳。関屋は知り合いの草野球チームにゲストとして出場した。3年ぶりにグローブをはめ、思い切りバットを振った感触は、関屋に再び野球への情熱を呼び起こした。「仕事はなんでもいいから、もう一度、野球がやりたい」。

 高校の先輩の紹介により、軟式野球部のある大手運送会社に転職が決まった。志半ばにして絶たれた野球への想いを取り戻すように、練習にのめり込んだ。翌年、同じく軟式野球部をもつ製造業の会社に転職する。

 「野球をやれるうちに、やろうと思って。もっと本気で、日本一になれるチームでやりたかった」

 関屋はこのチームで国体の2連覇に大きく貢献した。

 12年、34歳のとき、関屋は自らの意思で野球を辞めた。他人から強制されたものではなく、初めて自らが決めた「引退」であった。「会社の始業時間は8時半ですが、いつも6時半に出社し、準備をしています」。戦力外通告後、仕事との向き合い方に苦労した関屋であったが、今は清々しい気持ちで仕事に打ち込むことができている。

  
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◆Wedge2015年7月号より

 


 

 

 


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