いま、なぜ武士道なのか

2009年9月12日

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 長い人生のなかでは、他人に指摘され、あるいは自己批判をし、深く反省する局面が必ずあるはずだ。自己の省察とそれを活かした次のステップはたいへん重要である。
しかし『葉隠』では、そうしたときこそあえて高慢の心を保ち、信念を強くせよと諭す。作者の山本常朝は、人道を説く江南和尚たちのやりとりから、かえって武士道の気組みとは何かを悟った。
普通の人の“道”とリーダーたる者の“道”は、違うのである。

日本無双の勇士

 自分の非を知るということはどのような意味であろうか。これはたやすいようで難しい問題である。反省するということは人間の為しうるすぐれた資質である。ところが反省ばかりしていると行動において消極的になってしまう。ここがいけない、あそこがいけないとばかり考えていると、つい気おくれがして手足が動かなくなる。それではこの問題を、『葉隠』ではどのように解決しているのであろうか。

 宗龍寺江南和尚に、美作守殿・一鼎など学文仲間面談にて学文咄を仕懸け申され候へば、「各は物識りにて結構の事に候。然れども道にうとき事は平人には劣るなり。」と申され候に付、「聖賢の道より外に道はあるまじ。」と一鼎申され候。江南申され候は、「物識りの道に疎き事は、東に行く筈の者が西へ行くがごとくにて候。物を知るほど道には遠ざかり候。その仔細は、古の聖賢の言行を書物にて見覚え、咄にて聞き覚え、見解高くなり、はや我が身も聖賢の様に思ひて、平人は蟲の様に見なすなり。これ道に疎き所にて候。

 道と云ふは、我が非を知る事なり。念々に非を知って一生打ち置かざるを道と云ふなり。聖の字をヒジリと訓むは、非を知り給ふ故にて候。仏は知非便捨の四字を以て我が道を成就すると説き給ふなり。心に心を付けて見れば、一日の間に悪心の起ること数限りなく候。我はよしと思ふ事はならぬ筈なり。」と申され候に付、座中それより崇敬いたされ候由。然れども武篇は別筋なり。大高慢にて、吾は日本無双の勇士と思はねば、武勇をあらはすことはなりがたし。武勇をあらはす気の位これあるなり。

(現代語訳)
宗竜寺(1)の江南和尚は、多久実作守殿や石田一鼎などの学問の仲間と会って話をした時、『みなさま方は物知りでけっこうなこと。しかし、道に疎いということでは普通の人以下である』と申された。そこで一鼎は『聖賢の道より外に道はない』といわれた。すると江南和尚はこう申された。『物知りの道に疎いのは、東へ行くはずの者が西へ行くようなものである。物を知るほど道に遠ざかるものである。その理由は、昔の聖賢の言行を書物で見覚え、話して聞き覚えして、いかにも見識が高くなり、もはや自分も聖賢になったような気がして、普通の人を虫けらのように見下すのである。これが道に疎いということである。

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