対談

2015年10月26日

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五十嵐 ただ、「杞憂であることを願っている映画」と受けとめた人はそれほど多くないんじゃないですかね。福島県の住民や生産者と話す機会も多いのですが、こうした表象をそのように理解する人と会ったことはありませんし、東京の観客もそうは解釈していないんじゃないでしょうか。

毛利 運動を盛り上げるために、どこかで不幸を願っているんじゃないか、ということですか?

五十嵐 不幸を願っているとまでは言わないまでも、少なくとも科学的な立場に立つ人から見れば、健康被害を「盛っている」と見られるわけですよね。

 もちろん「危険を警鐘する」立場があることはわかります。でも「盛っている」と思われた瞬間に、政治的な目的のために被害があることを望んでいるんじゃないのか、と現地で生活する人は思ってしまう。この断絶は根深いと思うんですよね。

 もう一点は、この嚢胞が関わってくるのは放射性ヨウ素ですよね。これは事故直後に放出されて、半減期は約8日です。初期にどのように放射性ヨウ素が飛散したのか正確には追いきれないのは痛恨ですが、現時点で福島県産の米や野菜を食べたり、県外避難することとヨウ素は無関係の話ですよね。

毛利 初期にどれだけの影響を与えたのか、ということですよね。

五十嵐 僕自身は甲状腺検査にはスクリーニング効果が出ていると思っていますけど、仮にスクリーニング効果ではなかったとしても、ヨウ素が影響する甲状腺の疾患を根拠に、今の時点から「避難しろ」というような警鐘を鳴らすような話ではなくて、継続的な検査を求めようという話だと思うんですよ。それが「福島に住んではいけない!」になってしまうとしたら、福島県内に住んでいる人との断絶を深めるだけだと思います。

毛利 ただね、やっぱりあの映画に出てくる母親や子どもの姿や、あるいは映画をきっかけに逃げるような人たちの最大の言い分は、もしそこにとどまって自分の子どもが癌になった時に、因果関係はわからないけれども、やっぱり自分を責めることになるから、なんですよね。その不安は確実に、運動を推し進める一つの力にはなっていると思います。問題は、この現在も続く不安さえもOurPlanetTVなどの一部の市民メディアを除き東京のメディアが伝えなくなっているということです。

五十嵐 脱原発のためのエネルギー政策を考えるのは大事ですし、僕自身もそれしかないと思っていますけど、健康被害を運動の燃料にするのは、やっぱり違和感がありますね。
 

「信用するな!」と「放射“脳”!」に分かれた社会で


五十嵐 これは以前に農水省の方から聞いた話ですが、食品への安全不安が起きたときに、メディアなどから輸入禁止を求める声が高まるのは、中国産とアメリカ産だけなんだそうです。実際には他の国からの輸入品のほうが、禁止物質の混入率は高いのに、盛り上がるのはBSEの時のようにアメリカか、冷凍ギョーザ事件の時みたいに中国だけなんだそうです。そして、それぞれまったく別の「陣営」から農水省に抗議の電話がかかってくる(笑)。本当はみんな食品の安全性なんか興味ないんじゃないか、政治的な攻撃の材料を探しているだけなんじゃないかとその人は言っていて、たしかにその通りかも知れないと納得してしまいました。エネルギー政策と健康被害をリンクさせる発想にも、同じものをどうしても感じてしまうんですよね。

毛利 ただね、「不安だ」と「心配ない」のどちらの声が福島県内で強いかというと、やっぱり「心配ない」だと思うんですよね。それが同調圧力を生んでいる面もあるだろうと思うんです。「不安だ」と言いにくい空気が醸成されている。

五十嵐 そういう側面もあるでしょうね。

毛利 福島産を食べようというキャンペーンの中で、「うちの子にはちょっと」とは言い出せない、そんな雰囲気はあると聞きます。

 だから現実に起きているのは健康被害よりもむしろ同調圧力なのかも知れなくて、もはや科学で扱えることではないと思うんです。むしろ「心配ない」という科学に対する不信感、「食べましょう」という行政への不信感が起きてしまっている。それを払拭しないことには、科学だけ切り離すことはできないのではないでしょうか。だから望ましい専門家集団のあり方は、市民が知識を得るプロセスそのものに関わって、ある数字を評価したり別の数字と対置してみせたりといったことなんだと思います。

五十嵐 そうですね。それは大事です。

毛利 そのプロセスを抜きにして、「科学的には証明されているから信じろ」とやり続ける限りは、分断しか起こらない。政府にも科学者にも、コミュニケーションの瑕疵(かし)はあっただろうと思います。

 今はどちらの側も見たいものだけを見て、取り入れたいものだけを取り入れるようになっている。反原発運動として市民測定所などをやっている人たちのなかにも、測ってみて高い数値が出ないと「この機械は細工されている」などと騒ぐ人もしましたよね。「危険だ」と言われるとむしろ安心する、そういう情報だけを見ていたい人が一定数いる。それは不健全な状況だと僕も思います。でも「安全だ」と言う人たちもそこで理解をシャットアウトして、そうでない人に「科学的リテラシーがない」「放射【脳】だ」とレッテルを貼ってしまう。本当に不毛な分断で、立場の異なる人たちが連携して測定して、情報発信を協議するような取り組みが必要なのは五十嵐さんのおっしゃる通りです。

 反戦運動がもっとも盛り上がるのは戦争の時だというジレンマは、運動の側には常につきまとうもので、ある意味で危機に依存する要素がそこにはある。脱原発運動にもその面があるということですよね。

五十嵐 まさにそうです。難しいところではありますが、そこで分断が起きてしまう。

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