2024年4月25日(木)

江藤哲郎のInnovation Finding Journey

2015年10月30日

 話を1984年に戻そう。その年はイギリスの作家ジョージ・オーウェルが全体主義的ディストピアを描いた小説のタイトルでもあり、それに感銘したデビッド・ボウイが7枚目のアルバム「ダイアモンドの犬」で収録している曲名でもある。ビッグブラザーをディスラプトするCMをスーパーボウルでオンエアし、華々しくデビューしたアップルのマッキントッシュに比べ、マイクロソフト・ウィンドウズは同年に1.0を発表するも未だ普及前であった。

 その年アスキーに入社した私は、恩師古川享(当時同社取締役、マイクロソフト本社副社長を経て現慶大教授)の命を受け、シリコンバレーに3週間出張する。任務は主に提携先のインフォミックスで製品内容の研修を受け、日本での製品化の準備をする事であった。当時はデータベースの黎明期で、インフォミックスはオラクルやdBASEと激しく競合していたが、パソコンから大型汎用機まで同じソフトが使えるなどの特徴を備え優れた製品群であった。後にこの分野は、巧みなマーケティングで勝利したオラクルが市場を押さえる事になるが、正直その時点では勝者を予想できなかった。と言うより、今思えば入社一年目にして彼の地での激しい市場競争に、いつのまにか自分自身も参戦していたのだ。

1984年 ハリウッドからシリコンバレーへ

 滞在中のある日の夕方、同社幹部で私のメンターでもあったボブ・マクドナルドが映画に誘ってくれた。見たのはインディー・ジョーンズだったが、本編は終わりスタッフロールが始まると、ボブは特撮のスタッフを指さして「彼は友達だ」「彼とは一緒に仕事をした」と語り始めた。ボブは以前ハリウッドで特撮のプロダクションにいたのだ。パロアルトで夕食に選んだ小さな中華料理店でムッシュポークを頬張りながら、私はボブに聞いた「ハリウッドで仕事を続けていた方が面白いのでは?」と。ボブは笑いながら、でも強い眼差しで答えた「いや違う。今やシリコンバレーはハリウッドよりずっとエキサイティングだし、これからアメリカで一番成長するエリアだ。だから僕は移ってきた。全米から多くの人材が集まり、ここでの競争は激しい。君も日本から来てその戦場の真っただ中にいるのだ。」初めてアメリカに来て、暫くぶりのアジア飯で寛ぎかけていた私は不意を突かれたが、その時シリコンバレーが人を惹きつけるパワーを知った。

 後日談がある。帰国後、アスキーの社員総会で簡単な出張報告を求められた私は、このパロアルトの中華料理店での話を披露し「アスキーも日本のパソコン業界も今最もエキサイティング。私もその成長に賭ける。」と締め括った。まばらにパチパチ…と拍手が起きて消え「滑ったかな?」と思った瞬間、前列にいた西和彦(当時同社副社長、現須磨学園長)が「おーっ!いいぞ、江藤」と一際大きな声で盛り上げてくれた。熱い人だった。

 ボブとの会話の翌週、私は出張の最後の目的地シアトルに移動しなければならない。マウンテンビューで当時まだ一泊50ドルほどだったベスト・ウェスタンというモーテルのオヤジに別れを告げ、3週間毎日ひとりで食べる朝食の友だった地元紙サンノゼ・マーキュリー・ニュースの束を全部処分してくれと頼んだ。荷物を持って振り返ると、映画バグダッド・カフェばりに寂れた看板にvacancy(空きあり)のネオンが灯っていた。


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