WEDGE REPORT

2015年10月28日

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大阪生まれ、大阪育ち「徳山宗孝」

 さて、そんなトクヤマカメラマンは、いかにして世界的になったか、である。トクヤマ氏の経歴で必ず出てくる話がある。日本では水商売をしていたということと、21才で当てもなく、しかも泣く泣くNYに渡ったという事実である。町工場が並ぶ大阪の下町で生まれ、町工場を経営する両親を日々目にし、「スーツを着てる人なんていない」街で手に職をつけることを当然として育ったトクヤマ少年。彼は十代で夜のバイトを始める。「タレントさんが10万以上するようなワインを一口だけ飲んで帰ったりするような新地のBARなんかで、自分よりもずっと年輩の人と接していた」思春期は、一体彼に何を残したのか。あるいは彼から何を奪ってしまったのか。

 「成功した人を大勢見ました。『若い時は努力するものだ』ってみんなが若造の僕に言ってくれて。今努力しないでどうするんだ、っていう思いは刷り込まれた気がします。あと、一時的な活躍だった人もいたりして、調子に乗ったり、いきったりしたらあかん」ということも教訓として学んだという。『いきる』とは、関西弁で分不相応に偉そうにすることを指す。『コマフォトの特集なんか出るといきっちゃいません』と聞くと、「そうなんですけど、そうはならんとこう、というね。でも、コマフォトの特集は素直に嬉しいですね。日本に戻ってからやり遂げたい目標の一つでしたし、これでもうこのことは考えないで済みますし。両親なんかは、やっぱりこんな風に雑誌にばんと載ったほうが喜んでくれるんですよね」

 トクヤマ青年が渡米した過去に話を戻そう。彼がアメリカに渡ったのは、夜の街で見た成功者への憧れでも、努力しようとする対象が見つからないながらに思い切った若者の冒険でもなかった。「高校卒業後、何すんの?」と友達に聞かれたトクヤマは、「アメリカに行こっかな」と何気なく答えてしまう。そこは大阪、ツッコミどころを得た友達は、彼に会う度に「ほんでトックン、いつアメリカ行くん?」と聞くようになる。大阪から出たことがないくらいに地元だけを見て育った青年は「アメリカに行かなあかんのか。オレは嘘つきになるんか」と、その生真面目さから追い込まれるようになり、21才の冬、パスポートを手にすることになる。

NY生まれ、NY育ちフォトグラファー
「トクヤマムネタカ」

 NYに行ってしばらくして起きた9.11アメリカ同時多発テロ事件。トクヤマはたまたま手元にあった一眼レフのシャッターを押し続け、ビルの屋上から巨大なWTCが崩れ落ちるのを見守った。「ただ、その時もまだカメラマンって感じではなくって。ファッションショーの制作をしたり、ファッションデザイナーやスタイリストのアシスタントをしたり。写真は目指してはいなかったけど、方向性だけは見えていた感じだったんです。方角だけ決めていたら、写真の世界に入れたというか」。その後、青年は『ただでいいから働かせて欲しい』と入った撮影現場で荷物運びをし、自らの手につける職をカメラの世界だと感じたのだ。

モデルを激しく動かすトクヤマのスタイルは、この頃にスタートする。NYにいる大勢のカメラマンの中で淘汰されないため、またナイキという目標があったため、生み出されたスタイルだった。(写真:Munetaka Tokuyama Photography提供)

 カメラを始める際、トクヤマはいくつか目標を掲げる。その一つに「ナイキの撮影をする」というものがあった。幾人かのフォトグラファーの元でアシスタントとして研鑽を積み、2005年に全米のファッション・フォトグラファーの登竜門となる『Surface Magazine's Avant Guardian Isuue』を受賞する。ただ、仕事は急に増えることはなかった。「3カ月仕事がなくって、マンハッタンの夕陽を見て過ごした時期もありました。そしてようやく夢にまで見た雑誌の仕事の依頼があって。でも、アメリカの雑誌って、クレジットが出る代わりに、報酬がないんです。撮影をすればその分持ち出しになって、やればやる程不幸に向かっている感じもありました」

 NYはファッションフォトの頂点である。「アメリカ時代にすごい人をたくさん見ました。彼らに勝てるとは思わなかったんですが、元来負けず嫌いなんで肉薄したいとは思うんですよね。たくさんの人に助けられてきたけど、なるべく自分の力で、と思ってやってきました」。実績や経験、コネやお金を持たない駆け出しのフォトグラファーは、自らの力で道を切り拓こうとした。

 そんなトクヤマを支えたのはファッションデザイナーの恋人だった。「当時はまだ結婚していませんでしたが、彼女は『辞めたら』とか、『これからどうするの』とか一言も言わなかったんですよね。今思っても、そう言っていいと思うし、言われて不思議もないんですが、僕を責める代わりに『あんたは待っときゃなんとかなると思ってるから』って言ってくれたんですよね。その一言が僕を勇気付けてくれました。僕を信じてくれる人が、僕以外にもいて。自分の中にもあったその気持ちを代弁してくれる人がいて、僕を支えてくれる。僕は以前働いていたしゃぶしゃぶのお店で週2回働かせてもらって、また撮影に励みました」

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