2024年4月25日(木)

古都を感じる 奈良コレクション

2009年11月18日

 『悲華経』は、お釈迦さまだけが五濁悪世の衆生(すべての命あるもの)を救うという誓いを立て、ほかの仏とは異なり、あえて浄土へは行かずに、私たちの住むこの穢土(えど/穢れた世界)に現れてくれたことを讃えている。

釈迦如来像 西大寺

 叡尊が造った釈迦如来像(現在の西大寺の本尊)の頭の中には『悲華経』が納められており、『悲華経』に描かれた釈迦如来、つまり五濁悪世で苦しむ人々を救うためこの世界に現れた釈迦如来として造られたことがわかる。

 叡尊はハンセン病の患者をはじめとする恵まれない人たちの救済活動を積極的におこなった。生活の糧(かて)を支給するばかりではなく、文殊信仰によって来世への希望を与え、物質と精神の両面で彼らを支えたことは特筆してよい。

 叡尊は法華寺に戒壇を設け、正式な比丘尼(びくに/尼)を誕生させた。救済される側ではなく、救済する側へ、女性の立場を反転させたのである。弘安3年(1280)に造られた叡尊像に納められていた弟子や信者の名簿をみると、男性915人に対して女性633人で、女性の比率がとても高いことがわかる。

 叡尊は有力者からの荘園寄進を断り、人と人のつながりに根ざした活動を続けた。叡尊を支持する人々から寄進された田畠は狭く、お金は少額であったが、蓄積されると、西大寺をはじめ荒廃していた多くの寺を復興させる原動力となった。

 弘安4年(1281)6月、蒙古の大軍がふたたび日本を襲った。元寇、弘安の役である。叡尊は石清水八幡宮に参詣し、持斎僧560余人とともに、閏7月1日より七日七夜の祈祷をおこなった。あとになって叡尊は、修法を始めた日に大風が吹き、10万余の蒙古軍が壊滅したことを知った。

 これによって叡尊の名声は決定的になった。京都の朝廷からも、鎌倉の幕府からも、各宗の僧尼からも、民衆からも、さらに帰依は深まり、叡尊は生身(しょうじん)の仏ともみなされるようになった。

愛染明王像 西大寺

 しかし、叡尊の祈祷の内容は、「東風をもって兵船を本国に吹き送り、乗る人を損なわずして、乗るところの船を焼失せしめたまへ」だった。敵兵の無事を願う祈祷をした人が、他にいただろうか。九州博多の筥崎八幡宮に伝わる話では、叡尊はみずからの修法で蒙古兵を損じたことを深く恥じ、さらに仏道に精進したという。

 やがて、あの日の大風は、西大寺の愛染明王像が手にする鏑矢(かぶらや)が西へ向かって飛び、神風を吹かせたためと言われるようになる。その像は宝治元年(1247)に造られた。叡尊が弟子たちと「穢悪充満の無仏の国で、仏菩薩の救いに漏れた人々を救おう」と誓いを立てた年である。この愛染明王像は、行く道が果てしなく困難であることを自覚した叡尊たちの心の支えになっていた。


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