いま、なぜ武士道なのか

2009年11月13日

»著者プロフィール

 社会には、さまざまな人が往来している。そしてその人たちは、さまざまな社会的役割を持っている。老若男女、上司と部下、教師と教え子、夫婦、友人…。多様な社会の人々の関係を取り持ち潤滑にするものが、礼儀の存在である。見知らぬ者同士であっても、挨拶という礼があれば途端に心が通じやすくなるだろう。
しかし、昨今ではこうした礼を重んじる風潮が無くなり、親や教師に手を掛けるという犯罪も増えてきた。風紀のよい社会を目指すならば、礼を重んじよ、と著者は言う。

 礼節とは何であるか、などと議論をすれば長くなる。現代の若者は、それを軽視している者が多いように思われる。こういうことは、今にして始まったことではない。若者がそうなるということは、大人の社会にも問題がある。つまり、社会の規律がゆるんでいるからではないだろうか。

「礼に腰折れず、恐惶に筆つひえず。」と申す事、親神右衛門常に申し候。当時の人は礼がすくなき故、うっかりとも見え、風体悪しきなり。別隔てなく礼々〔うやうや〕しきがよし。又長座の時は、始と終に深く礼をして、中は座の宜しきに随ふべし。相応に礼をすると思へば不足にあるなり。近代の衆は無礼調子早になりたり。

(現代語訳)
「いくら礼をしても腰は折れず、いくらていねいに書いたからといって、筆がすりへることはない」ということを、父の神右衛門はいつもいっていた。今の人は、礼儀がたりないので、少しぬけているように見え、態度もよくない。人を別け隔てすることなく、うやうやしくするのがよい。
また長居する時は、始めと終わりに深く礼をして、中座はその場に合わせればよい。相手につり合った礼をしようと思うと不十分になるものである。近ごろの衆は、礼儀を知らず、せかせかするようになった。

 知・仁・勇を三徳といい、仁・義・礼・智・信を五常という。古来から人の守るべき徳目とされてきた。これは君臣・父子・夫婦・長幼・朋友の関係を説いたものである。戦後においては民主主義の名のもとに、この関係は徹底的に批判された。

 あつものにこりてなますを吹く、という格言がある。これは前の失敗にこりて無用の用心をする愚かさを笑った言葉である。戦後の日本は、これと同じような愚をおかしたのではあるまいか。つまり、戦争の惨めさにこりて、戦前のすべてを葬り去ろうとした。その中には、日本の美しい伝統もあれば、良い習慣もあった。和を貴び、勤勉と節約という人間の本源的な価値まで捨て去った観さえある。しかし、最近になって反省すべきことに気づき始めた。礼というのもその一つである。学校に家庭に、そしてあらゆる職場に失い過ぎた礼に気がついた時には、多くの犠牲が出ていた。それは青少年の非行であり、社会の混乱である。

関連記事

  • PR
  • 新着記事

    »もっと見る