2024年4月26日(金)

秋山真之に学ぶ名参謀への道

2009年11月21日

 つぎは地の利です。

地の不利は発奮に変えろ

 明治維新のあとは、薩長土肥の藩閥の天下となります。ところが、秋山家は初代信久が松平(久松)定之に仕えてから6代の久敬にいたるまで、先祖代々愛媛の松山藩士でした。この藩の初代定行は、家康の生母お大の方(伝通院)が再婚して生んだ久松定勝の嫡男です。れっきとした親藩だから明治維新では佐幕側についた。長州征伐の先鋒として海を渡り毛利藩の屋代島に侵攻します。ところが、肝心の徳川将軍慶喜があっさり大政奉還してしまった。さあ、どうするか。

 毛利藩に占領されるのだけは、勘弁してもらいたい。幸い、勤王派の土佐藩から200名の進駐軍がやってきます。道後温泉の芸者衆が峠まで出向いて歓迎したそうです。それでも屈辱の歴史にはちがいありません。「土州下陣」と呼ばれ、いまも松山人の記憶にのこっています。この苦難の記憶が秋山真之だけではなく、『坂の上の雲』の主人公、秋山好古と正岡子規の「負けぬ気」を養いました。

 なにしろ錦旗に逆らった賊軍の子弟ですから、高級官僚になって出世する道が閉ざされていた。軍人になるか、文士になるしか仕方ない。兄好古は陸軍、親友子規は文学、弟真之は海軍を選び、「負けぬ気」でそれぞれ第一人者となります。

 昭和日本もアメリカ軍に占領されました。ソ連でなくてよかったとはいえ、屈辱の歴史に変わりはない。「米州下陣」です。吉田茂が悔しがった。

 「戦争に負けても、外交で勝った例はある」

 この「負けぬ気」が戦後の復興を支えました。

 では、バブル・バーストからの復興がなぜ足踏みのまま、失われた15年がすぎてしまったのか。「負けた気」がしていないからでしょう。勝ち負けは相手があっての話です。不動産バブルを起こした自分が悪いという自責の念だけでは、闘志が湧いてこない。

 バブルの原因ば昭和60年9月22日、中曽根内閣の宮沢蔵相がプラザ合意でアメリカの円高・ドル安外交に屈したときにはじまります。これは先の大戦での敗北を上回る対米第2次敗戦でした。その認識がないから「負けぬ気」が湧き上がらない。小泉構造改革はアメリカに「負けるが勝ち」みたいな弱腰でした。竹中参謀には「負けぬ気」など微塵もない。ひたすら対米追従でした。

 秋山真之は地の不利を発憤の動機に変えました。禍を転じて福となす。エクスポ世代の諸兄諸姉は、まずアメリカに対して。つぎに中国に対して「負けぬ気」を奮い発たせてください。

 さて、一番大切なのは、人の和です。

天地人のうち、もっとも大切なもの

 秋山真之は父平五郎と母貞の五男として生まれました。幼名は淳五郎です。

 松山藩士といっても、平五郎わずか10石取りの歩行目付、切米の身分で知行地はありません。藩から蔵米を支給される下の中級の武士でした。真之が生まれたころには髪がうすくなり、頭が寒いと大黒頭巾をかぶっていた。いつもこたつにあたってなにもせず、ただニコニコして、五人の息子に言い聞かせていました。


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