BBC News

2016年3月9日

ビートルズの数々の名曲・名盤のプロデューサーで、「5人目のビートル」とも呼ばれるサー・ジョージ・マーティンが8日、自宅で亡くなった。90歳だった。

「皆さんの思いと祈りと、応援のメッセージに感謝します」という家族の談話を、マネージャーのアダム・シャープさんが発表した。

「70年におよぶキャリアの中で、大勢にインスピレーションを与えた人です。音楽界で最もクリエーティブな才能のひとりとして世界的に知られている。最後まで、本物の紳士でした」とシャープさんはコメントした。

サー・ジョージ死去の第一報は元ビートルズのリンゴ・スターさんが9日早朝(日本時間同日午後)、ツイッターで明らかにした。

リンゴ・スターさんはツイッターで、「ジョージ・マーティンに神様の祝福を。ジュディ夫人と家族に平和と愛を。リンゴとバーバラから愛を。ジョージがいないとさみしくなる」と書いた。さらに「たくさんの愛情と優しさをありがとう、ジョージ。平和と愛を」と付け加えた。

息子のジャイルズ・マーティンさんは「父さん、安らかに。愛してます。あなたの息子だったことを、すごく誇りに思ってる。言葉にならないほどさびしい。たくさんの時間を一緒に過ごせて、本当にありがとう」とツイートした。

ポール・マッカートニーさんは公式サイトで「この偉大な人と素晴らしい思い出があまりにたくさんあって、どれも自分の中で永遠に消えない。本物の紳士で、僕にとって2人目の父親のような存在だった」、「5人目のビートルと呼ぶにふさわしい人がもしいるなら、それはジョージだった。最初にビートルズと録音契約してくれた日から、最後に会った時に至るまで、僕が知り合えた中で誰よりも心が広くて知的で音楽的な人だった」と書いた。

1926年にロンドン北部ホロウェーの大工の息子として生まれたサー・ジョージは戦後、大手レコード会社EMIの系列レーベル「パーロフォン」のプロデューサーとなる。

リバプールの人気バンドだったビートルズのデモテープを1962年に聴き、レコード録音契約を交わした。以降、最初のシングル「Love Me Do」を皮切りに大ヒット曲や名アルバムを次々とプロデュース。ポピュラー音楽を一変させた世界的人気バンドの音楽に、欠かせない存在だった。

グラミー賞を6回受賞したほか、映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の音楽でアカデミー賞を受賞している。

50年以上にわたる音楽界のキャリアで、ビートルズのほかにジェリー・アンド・ザ・ペースメーカーズ、シャーリー・バッシー、シラ・ブラックなどと組み、700枚以上のレコードを製作した。

1996年にナイト爵位を授与され「サー・ジョージ」となり、1999年には「ロック名誉の殿堂」に名前が刻まれた。

元ビートルズの故ジョン・レノンさんの息子、ショーン・オノ・レノンさんはツイートで「安らかに、ジョージ・マーティン。あまりに悲しくてあまり言葉が出てこない」と書いた。

キャメロン英首相は「サー・ジョージ・マーティンは音楽の巨人だった。ほかの何よりいつまでも消えてなくならないポップス音楽を、あのファブ・フォー(ビートルズの意味)と作り出した」と書いた。

サー・ジョージをよく知るBBCラジオ1の司会者、アニー・ナイティンゲールさんは、ビートルズへの影響は計り知れないと語る。

「クラシック音楽の知識が豊富で、それを古臭いとか堅苦しいとか感じさせずに、ビートルズの音楽の中にもたらすことができた」

「とても美しく話す人で、素晴らしいユーモアの持ち主だった。ビートルズと魔法のような関係をしっかり作れたのは、そのおかげだと思う」

「ジョージ・マーティンがその可能性に気づくまで、ビートルズはほかのどのレコード会社にも断られている。私はこのことをあちこちで言うのだが、最初の頃はうまくいかなくても決してあきらめてはならない。ビートルズがそうだったのだから」

「ちょっとお上品」

かつてサー・ジョージは、労働階級出身のビートルズを有名にした「紳士」扱いされたこともある。

しかし本人はこれを「ばかげている」と一蹴。「小僧4人を有名にした先生だとか高学歴の紳士だとか言われたが、実際にはまったくのでたらめだ。私たちの生まれ育ちはとても似ていたので。ポールとジョンはいい学校に行ったし。うちの両親はとても貧しかったので、うちでは有料の学校には行かなかったし。私は音楽を正式に学んでいないし、(ビートルズも)そう。みんな独学だ」とサー・ジョージは話していた。

「お上品云々については、英国海軍を経験すれば誰だってちょっとはお上品になるしかない。ロックンロールの馬鹿者みたいに、士官室でスープを振り回すわけにはいかないから」

<分析>マーク・サベッジ、BBC音楽担当記者

ジョージ・マーティンがいなかったら、ビートルズはかなり違うバンドになっていたはずだ。

マーティンの穏やかな物腰と高い技術力のおかげで、ビートルズは色々な実験ができた。突拍子もない派手なアイディアを思うままに試すことができたのだ。レノンとマッカートニーは自分たちが作った曲の編曲を、マーティンに任せることが多かった。「イエスタデイ」の弦楽四重奏はそっくりそのまま、マーティンが作ったものだ。「ミザリー」のピアノソロを弾いているのもマーティンだ。

ビートルズが初めてアビー・ロードで録音したとき、マーティンが席を立ったのは有名な話だ。自分が食堂に行く間、「ベサメ・ムーチョ」の録音はエンジニアにまかせきりにした。

しかし4人が「ラブ・ミー・ドゥー」を演奏し始めると、テープ技師がマーティンを呼びに行った。現代のポップス音楽において最も生産的なプロデューサーとミュージシャンの関係が、そこから始まったのだ。もっともビートルズの側はそうそうすぐに、この洗練されたロンドン出身の大人を自分たちの身内に迎え入れようとはしなかったのだが。

レコーディングが終わると、マーティンは4人に、何か気に入らないことはないか質問した。ジョージ・ハリソンがこう答えた。

「まず、おたくのネクタイが嫌いだ」

幸いにして、マーティンはこれを面白いと感じる人だった。そしてそれ以降、5人組はポップスの決まりごとを一から作り直していったのだ。

ビートルズが解散すると、マーティンは映画音楽を作り、スティングやホセ・カレーラス、セリーヌ・ディオン、スタン・ゲッツなど実に多岐にわたるアーティストと組んで仕事を続けた。

エルトン・ジョンが1977年に「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を再録音する際にも、プロデューサーを務めた。これはシングル曲として過去最高の売り上げを記録した。

クラシック音楽の訓練を受け、オーボエ奏者として出発したマーティンは、大衆相手の市場で名を成したことを決して後悔しなかった。

「ロックンロールの役目は、クラシック音楽と一緒です」とマーティンはかつて語った。「大勢に好かれて、何かしら意味のある音を作り出すことです」。

(英語記事 'Fifth Beatle' Sir George Martin dies, aged 90)

提供元:http://www.bbc.com/japanese/35761372

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