障害者アスリート~越えてきた壁の数だけ強くなれた

2016年5月7日

»著者プロフィール

 転院先の病院にはテニスコートがあって、そこまではかなり長くて急な坂があるんです。そこを毎日車椅子で上り下りしました。普通の人なら歩いて5~10分くらいの距離なのでしょうが、車椅子だと1時間30分~2時間くらい掛かってしまうんです。でも、そのテニスコートを目標にして登り切りました。動けるようになったことが嬉しかったし、楽しかったんです。それに負けず嫌いというか、そんな思いも加わって、先生には内緒で勝手に筋トレなんかもやったりして、あの時は体を鍛えまくっていました」

 そんな山口のチャレンジの傍らには常に長田龍司さんという相棒がいた。アクティブな車椅子仲間であり、アニキのような存在だった。車椅子歴の長い相棒からは、段差を超えるキャスター上げのテクニックや床から車椅子に上がる方法なども教わった。

 「車椅子でウィリーできるの知ってますか(笑)。できるんですよ、そんなことも教えてもらいました。その人とは入院中によく外出しましたし、車で名古屋まで行ったこともありました。運動も遊びもその人に教えてもらって、車椅子でも楽しめることを知って僕の考え方も変わっていきました」

 アクティブな長田さんのおかげで山口はすっかり元気になった。だが、当時の山口はなぜか「スポーツはやらない」と決めていた。車椅子生活になるとリハビリの一環で車椅子陸上や車椅子バスケなどのスポーツを始めるのが一般的な傾向だ。しかし、山口は「さわやかなスポーツマンにはなりたくないし、やらなくても俺は負けない」と考えてかたくなに拒絶していた。

 「今考えるとバカだったなぁと笑えるんですよ。負けず嫌いで変なプライドがあったんです」

 それはふたりに共通したものだったようだ。その後どうした心境の変化か、山口はスポーツに目覚め、車椅子陸上を始める。

 「なぜ車椅子陸上だったのか、それは団体競技を一番下っ端からやるのが嫌だったからです。とりあえず個人競技で体を鍛えてから団体競技に移って、入った瞬間に度肝を抜きたいよなって考えたんです。負けず嫌いな変なプライドなんですけどね。最初は短距離をやって、最後はハーフマラソンにも出場しましたが、僕は気が短いし自分には合わないと思ってやめました」

 こうして個人競技から団体競技の車椅子ツインバスケットボールに転向したときに、後に山口が所属するウィルチェアーラグビーチーム『横濱義塾』の高橋正弘がいて、『ラグビーには日本代表もあるし、そっちもやってみれば』と声を掛けられたことがキッカケでウィルチェアーラグビーを始めた。

 この高橋の誘いが山口の人生を変えるターニングポイントとなった。

 「最初にウィルチェアーラグビーを見たときは音に圧倒されました。想像していた以上にスピードが速くてビックリです。車椅子同士でぶつかる怖さもありましたが、実際に乗ってみると見た目ほどの衝撃はなくて結構楽しめたんです」

 魅力を知った山口は車椅子ツインバスケと並行してウィルチェアーラグビーを始めた。個人競技よりも団体競技の方が性格に合うという山口はどちらの競技にもはまっていった。

マーダーボールと呼ばれた過激な競技

 ここで少し競技に触れておきたい。ウィルチェアーラグビー(車椅子ラグビー)は、1977年にカナダで考案された四肢麻痺者(頸髄損傷や四肢の切断、脳性麻痺等の障害を持つ)の競技であり、選手は障害のレベルに応じて0.5点から3.5点まで7クラスに分類され、コート内は4選手の合計が8.0点以内で競われる。こうしたルールによって各チームの障害レベルの均衡が保たれている。強くて速い選手ばかりが出場できるわけではないということだ。

 この競技の特異性は競技用の車椅子、通称「ラグ車」と呼ばれる屈強なマシンによって激しくぶつかり合うことにある。試合中はさながら交通事故のような音が体育館に響きわたる。そのコンタクトの激しさから「マーダーボール(MURDERBALL)」、直訳すると「殺人球技」とぶっそうな名前で呼ばれていた歴史もある。コンタクトスポーツゆえに「ラグ車」の転倒は日常茶飯事。障害者スポーツと呼ぶには少々趣が異なる。

 日本には1996年に競技が紹介され、1997年に日本ウィルチェアー連盟が設立された。パラリンピックの正式種目になったのは2000年のシドニー大会からである。

関連記事

新着記事

»もっと見る