いま、なぜ武士道なのか

2009年12月11日

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 忠義の志士たちが活躍する物語として受け継がれている赤穂浪士。最近まで、歳末をもりあげる定番だった。しかし、『葉隠』著者の山本常朝からすれば、浪士たちの夜討ちなども気に入らないという。
はじめから腹をくくっておくことができれば、迷うことなく切り殺される覚悟で行動に出るということは、多くの危険を伴う。この勇気を支える「死に狂い」の心があるかどうか、それが勝負の分かれ目となるのである。

 喧嘩の仕方はなかなか難しい。勝とうと思うと、ついタイミングを失ってしまう。ここでは赤穂義士の討ち入りを批判しているのがおもしろい。常朝は鋭い観察をしている。

 ある者が喧嘩の仕返しをしなかったので、意気地なしといわれ、恥をかいた。仕返しの仕方は、踏み込んでいって切り殺されるまでである。こうすれば恥にはならない。うまく勝とうと思うから、その場に遅れてしまう。相手は大勢などといっていると、時がたち結局はやめようではないかということになってしまう。相手が何千人であろうと、片端からなで切りにしてやろうと覚悟を定めていけばよい。そうすればたいてい成功するものである。

 また浅野家浪士の夜討ちも、泉岳寺で切腹しなかったことが過ちである。さらに主人が死んで、敵を討つまでに時間がかかりすぎた。もしも、その間に吉良殿が病死でもすればどうしようもないではないか。上方の人々は小才がきくから、ほめられるようなやり方は上手であるが、長崎喧嘩のような無分別なことはできない。また曽我兄弟の仇討ちも、ことのほか長くかかった。陣幕の紋を見てまわった時、十郎祐成〔すけなり〕が思わぬ失敗をしたのは、不運のことであった。その時、弟五郎のいい方は立派であった。

 だいたいにおいて、このような批評はしてはならないのであるが、これも武士道を考えるにあたって、あえていうのである。

 あらかじめ考えを練っておかなくては、その場に臨んで判断ができず、大てい恥をかく。話を聞きおぼえたり、書物を見るのも、いざという時の覚悟を決めるためである。とりわけ武士道では、今日もどんなことが起こるかわからないと考えて、日夜いろいろな場面を想定して考えておくべきである。時の運で勝負は決まる。しかし、恥をかかないやり方とは別ものである。死ぬ覚悟があればそれでよい。その場でうまくいかなかったら、後でやり返せばよい。これには知恵も業〔わざ〕もいらない。剛勇の者というのは勝敗など考えないで、しゃにむに死に物狂いにぶつかるだけである。これでこそ、夢から覚め、いっさいがふっきれるのである。

 何某、喧嘩打返しをせぬ故恥になりたり。打返しの仕様は踏みかけて切り殺さるる迄なり。これにて恥にならざるなり。仕果すべきと思ふ故、間に合わず。向は大勢などと云ひて時を移し、しまり止めになる相談に極るなり。相手何千人もあれ。片端よりなで切りと思ひ定めて、立ち向かふ迄にて成就なり。多分仕済ますものなり。

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