アリの背中に乗った甲虫を探して――未知の生物に憑かれた科学者たち
ロブ・ダン著 田中敦子訳
人間は、中世までは森羅万象の支配者として生物界に君臨してきたかに思われた。だが、そうした思いこみは17世紀の微生物の発見とともに打ち砕かれる。地動説によって人間が宇宙の中心から片隅に追いやられたように、人間は生物界の片隅に追いやられてしまった。本書は数世紀にわたる生物学的発見によって、人間が進化系統樹の一本の小枝に成り果てていく過程を、生きいきと描いている。
不屈の精神によって細胞内共生説を提唱したリン・マーギュリス。膨大な数の生物標本の収集に遠い異国へと旅立ったアルフレッド・ウォレス。全生物種カタログ化計画の推進者ダン・ジャンセン。アリの背中に乗った甲虫を探索する見果てぬ夢を追いかけるカール・レッテンマイヤー……、実直な生物学者からマッドサイエンティストめいた昆虫学者まで、本書には多彩な顔ぶれが登場する。
彼らの人間味あふれる生き様から浮かび上がってくるのは、輝かしい成功者のイメージとはかけ離れた、不器用で世事に疎い職人気質の科学者像であり、著者はそんな先学たちに敬意と共感と愛情のこもったまなざしを向けている。研究に注ぐ彼らの狂気にも似た情熱とあくなき探求心は、多くの人々の共感を誘い、生きる勇気を与えてくれるだろう。
◇46判並製、408頁
◇定価2100円(本体2000円+税)
◇2009年12月21日発行
<著者プロフィール>
著者:ロブ・ダン
ノースカロライナ州立大学動物学部準教授。『ナチュラル・サイエンス』、『サイエンティフィック・アメリカン』、『BBCワイルドライフ』、『シード』などの一般向け科学誌で活躍する新進気鋭の著述家でもある。
訳者:田中敦子
翻訳家。大阪大学文学部卒業。主な訳書に『私が何を忘れたか、思い出せない』(ウェッジ)、『地図に仕える者たち』『アメリカ新進作家傑作選』(DHC)、『中国を変えた男・江沢民』(共訳、ランダムハウス講談社)、『世界一役に立たない発明集』(ブルースインターアクションズ)、『シャングリラ・ダイエット』(フォレスト出版)他多数。
本書の執筆はアマゾンの奥地で思い立った。そのとき私は、医療人類学者の妻の調査旅行に同行していたのだ。われわれが小型機に乗ってはるばるやって来たのは、言葉も通じず、習慣も知らず、食べ物の名前もよくわからない異国の辺境だった。衣服を上下きちんと着ているのは、ほとんどの場合われわれだけであり、手づくりのハンモックで眠らないのも、虫が多いと愚痴をこぼすのも、われわれだけだった。これほどよそ者気分を味わう体験もそうないだろう。
書物とコンピュータと高速道路と携帯電話に囲まれて育った西洋人が、電気も水道もない集落で暮らしている――これがわれわれの状況だった。それにどうでもいいことだが、ちょっとした誤解も生じていた。現地の人たちはわれわれを、海軍に抵抗して革命を起こすために送りこまれてきた「委員会」のメンバーと思いこんでいるらしいのだ。われわれは毎晩何となく違和感を覚えながら眠りに就いたものだった。
ある日のことである。コンゴウインコが木にぶら下がり、森の奧からサルの鳴き声が聞こえてくる、いかにもアマゾンらしい夕べに、われわれは現地の人たちとサッカーに興じた。私はこのスポーツがあまり得意ではないが、その夜は特別だった。誰もがルールを知っていた。誰もが「パス」や「シュート」といった共通の言語を話し、たがいの言葉が完璧に理解できた。まさに文化の壁を超えた瞬間だった。そのとき撮った写真を見ると、私ははちきれんばかりの笑みを浮かべている。やがて夜の帳が降り、ゲームはお開きとなった。ゴールキーパーのホワンがこちらに近づいてきて、私の耳元で、何気なく尋ねた。「あなたの故郷にも、月はありますか?」文化の壁を超えた瞬間もここまでだった。
私はホワンに、ええ、あります、ここの月とそっくりな月が、と答えた。そして、彼の世界に存在する無数の可能性に、ある種の感動を覚えた。ホワンの世界では、各村がそれぞれ固有の月を持っている。彼の世界では、未知のもの、未発見のものが驚くほど多く存在する。このジャングルのなかでは既知の領域は狭い。身のまわりの木々、虫、日々の暮らし。ホワンは日常生活で目にするものは知っているが、彼にとってその他のことはみな憶測にすぎない。ホワンはアンデス山脈も見たことがない。彼の家から南へ三二キロも行けば、その峰々が雲のなかに入るところまで到達できるのに、それは彼が自分の足で走っていける距離をちょうど超えたあたりにあるのだ。ここでは何が起きてもおかしくなかった。
地球には月がひとつしかない。このことは欧米社会では周知の事実である。われわれはこの惑星をあらゆる角度から眺めてきた。いかに珍奇なものであれ、それらはことごとく発見されてきた。自宅のコンピュータを使えば、ホワンの村の衛星画像も見ることができる。探索すべき大陸も衛星ももはや存在せず、未知のものはほとんど残されていない。少なくともそんなふうに思える。だが、そうなのだ。ホワンの質問について考えるにつれ、私にはわからなくなってきた。わかっていると確実に言えるものが、いったいどれくらいあるのだろう。私も一応はアリを研究する生物学者だ。昆虫の世界についてどれだけわかっているのかと改めて自問してみると、わからないことだらけだと答えるしかなかった。では、どれだけわかっていないのか。われわれはどれだけのことを知らないのか。われわれには何がわかっていて、何がわかってないのか。こうした疑問が頭から離れなかった。
(続きは本書でお読み下さい)
<目次>
第1部 はじまり
第1章 いにしえの知識
第2章 共通の名前
第3章 見えざる世界
第2部 進化系統樹
第4章 使徒たち
第5章 全生物種カタログ作成計画
第6章 アリの背中に乗った甲虫を探して
第3部
第7章 細胞内共生説
第8章 系統樹に枝を接ぐ
第9章 深海微生物の共生
第10章 生命の起源
第4部
第11章 宇宙を見上げて
第12章 隕石中に生物の痕跡?
第13章 群盲象を評す
第14章 果てしなき未知の世界へ


