ACADEMIC ANIMAL 知的探求者たち

2009年12月18日

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 後先考えずに辞めてからは、しばらく東京でぶらぶらした。金がなくて、1年ぐらい建設現場のバイトをしたな。自分のチームを作って、公共施設のプールを作る仕事をしていた。組み立て式の部材を関東の各地で組み立てる仕事。ちょっと金が入ると、東北に行ってぶらぶらした。東北から南下して、適当にてくてく歩いて、温泉があるとそこにとどまるという。山下清の影響かな。金がなくなる頃に京都までやってきて、友だちの友だちの友だちの家にあがりこんで世話になっていた。わしの一番無頼な時代だな。

 そういえば、この前、広告の業界団体から話がきて、白隠について講演してくれと言われたよ。断ろうと思ったけど、途中でうっかり、「昔、広告代理店にいた」としゃべったら、おもしろがられて。いま、広告業界が大変なのは自ら墓穴を掘ったからだろ、とか言ってたら、そういう話をぜひ、と頼まれて。今度講演することになった。

●だいぶたって人生がつながった・・・それも必然だったのかもしれませんね。

――それで、京都でぶらぶらしていたら、ある日、どこから聞きつけたのか、大学時代に下宿していた法輪寺の和尚から、使いがきたんだ。聞けば、そのとき、和尚は花園大学の常任理事になっていた。だから大学での仕事を手伝いなさい、と。それで花園大学の職員になった。26歳のときだな。

 この和尚は、わしの人生にとっては決定的な人だった。大恩人だ。子供のときに親父が亡くなってから、親父みたいな存在の人が幾人も出現して、いろいろ世話になってきたんだけども、その中の最たる人がこの和尚だね。もう10年ぐらい前に亡くなったけども。昔は歳が20以上違う者同士がいっしょに話ができる雰囲気があったんだね。歳上の人は人生の先輩だから、話を聞いているとおもしろいんだよ。若いやつなんかよりも。

●和尚さんに誘われて、迷いなく大学に来たんですか?

――迷わなかったね。ぼちぼち、放浪するのに疲れていたしな。大学では、まず図書館の仕事をした。本を整理したり、仕事しないで本ばっかり読んだり。そのうち、今度は和尚の右腕みたいな立場で、大学の経営に携わるようになった。大学の総合移転なんかもあった。

 そのとき、学内にあった財団法人の禅文化研究所が原資が乏しくなって、活動が衰えつつあったので、そこに移って建て直すことになった。志願してそこに行くことになった。それまでにいた専任職員は5~6人だったけど、人員の整理、移動をしてイチから立て直すことになった。

●禅という専門分野にいきなり踏み込むことになったんですね。

――とにかく禅文化研究所をなんとか再建しないといけなかった。僕が寺で生活していてこの世界にある程度なじみがあったということを和尚が鑑みたんだな。

法輪寺の本堂に掲げてある山田無文老師の肖像画

 そのころ、研究所の主な活動は季刊誌を発行することだったが、それだけでは運営ができん。そこで、研究所に眠っている素材を書籍にして世間に紹介するというミッションができた。当時の学長は山田無文という有名な禅僧だったが、この老師の本を作る仕事がおもしろかった。初めて作ったのは『自己を見つめる』という本。昭和57年刊。学生向けの講演をまとめたものだけど、いまでもけっこう売れているよ。

 この頃、優れた編集者を目指すのはいいかなと思うようになっていた。企画をたてて本を書かせるという仕事がおもしろいなと。無文老師の講演テープがごっそり残っていたので、かたっぱしから文字に起こして本にしていった。イヤフォンを耳につけて、ワープロ入力する。足でペダルを押すとテープが止まる仕掛けで、ひたすら聞き取って原稿にしてゆく。最新式の富士通のオアシスの一番いいのを使っていた。1台350万ぐらいしたかな。親指シフトの時代だよ。

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