2024年4月19日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2010年1月6日

 こうして人々は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』さながらに、Big Brother=「大哥」としての共産党の視線を常に強く感じずにはいられない。中国のネット上には、検閲を恐れた自主規制=伏せ字・隠語が満ちあふれ、ただちにその文意を理解するには中国語学習者でも相当の熟練を要する。

ウイグル暴動で露呈した見せかけの「情報公開」

 中国の情報戦への執拗さはこれだけにとどまらない。彼らは、言論統制を通じて中国の現実が覆い隠されているという批判を「封じ込め」るためにも、中国自身が外国メディアに対して「情報公開」を行って「開放的」であるかのように見せかけようとしている。これは、ある特定の問題に関する印象や論じ方そのものを中国の意図に沿わせようとするものでもあり、中国では「話語権」の掌握と呼ばれる。昨年7月、新疆ウイグル自治区をめぐる緊張が激化した際に、中国側が「率先して」外国メディアにプレスセンターを提供し、ウルムチの実情を「取材させる」と称してその一挙手一投足を監視したのはその一例である。これは特に、一昨年のチベット民族蜂起への弾圧や、四川地震被災者の政府に対する哀訴を取材するメディアを締め付けたことが、国際的な批判を浴びたことへの一種の反応であるといわれるが、そもそもこの手の「報喜不報憂(喜びは報じ、憂いは報じない)」という発想に基づく情報操作は、一党独裁国家や軍事政権であれば常套手段でもあり、それが巧妙化したものであろう。

 このような国家において、メディアやネットに表出可能な情報とは一体どのような意味を持つのか。それは一応、政権党・政府の公式見解やプロパガンダ、あるいは無難な情報の集積に過ぎないかも知れない。しかしもう一つ重要なものとして、表向き政権党・政府が掲げているわけではなく、ややもすると極端であり緊張を引き起こすという点で望ましくないものの、ナショナリズムや国家目標に照らせば悪くなく、むしろ排除すればたちどころに党内やナショナリスト一般からの強い反発に遭遇しかねないために削除されない情報がある。

行き場を失った不満は海外へ

 その典型例は、2004~5年に沸騰した「愛国無罪」の反日言論である。このとき共産党は、もし「安定」「和諧」を字面通りに重視するならば問答無用に「ニセの反日愛国」を鎮圧すべきであった。現実に弾丸が飛び交うわけではない時代における真の愛国や「軍国主義への抵抗」とは、彼らの幻想する「日本軍国主義」とは正反対の価値に基づく平和的なものでなければ、日本人はおろか国際社会の共感を得られない。しかし、如何せん中国共産党は「銃口から生まれた政権」であり、共産主義思想の信憑性も薄れた以上、頼るべき価値は「抗日ゲリラ戦の記憶」という名の英雄主義と、中国ナショナリズム100年の夢である「富国強兵」しかない。国内外の現状を打破して中国の国威を発揚し、そこに自己を同一化しようとする「憤怒する青年」たちは、ネット上でこれらのイメージを動員することによって外交上の軟弱さを攻撃する。そこで共産党も、自己の「偉大で正しい」イメージを取り繕うならば、結局国際的な「安定」「和諧」を一時無視してでも国内の価値基準を優先させざるを得ない。

 こうして中国は、経済や社会の著しい変化・発展とは裏腹に、共産党自身が作り出した「反帝」的な「愛国」のイメージと「安定」「和諧」に縛られ、政治的には自ら変わることが出来ない袋小路に陥っている。「和諧」の名の下における言論弾圧は、思想の変化を拒むことと同義である。言論弾圧の中で行き場を失った現状への不満はますます、外国および対外的な妥協をした指導者に「敵」を求めるであろう。このような動きを取り締まらないことは、暗黙のお墨付きを与え続けていることと同義であり、共産党自身もにわかに生まれた「大国の自信」とともに、極端なナショナリズムとの馴れ合いをしている。その行き着く先は、戦前のドイツや日本とは異なると誰が断言出来るだろうか?


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