ひととき特集

2010年1月22日

磐余〔いわれ〕から飛鳥、さらに藤原京を経て寧楽(〔なら〕、平城)の京〔みやこ〕へ。
大きくうねるような都遷りの歴史の中で、
この国の在り方、そして、そこに生きた人々の意識はどのように変わっていったのでしょう。
歴史地理学者の千田稔・奈良県立図書情報館館長と
古代をテーマに多くの著作のある漫画家の里中満智子さんに紐解いていただきました。

――まずは、平城京に至るまでの、都遷りの歴史からお話しいただけますか。

千田 古代の宮は、磐余(奈良県桜井市南部・橿原市東部)や磯城嶋(〔しきしま〕、桜井市)、飛鳥(明日香村)など、大和を中心に転々としていたといわれます。ですが、記紀(『古事記』と『日本書紀』)などの文献から、名称やだいたいの場所を辿〔たど〕ることはできても、それらが物理的にどんな大きさで、どういう形であったのか、発掘調査でも、今のところほとんどわかっていないんです。記紀にあるだけでも20カ所ぐらい遷っていますが、かろうじてわかるのは、推古女帝の小墾田宮(〔おはりだのみや〕、明日香村)の頃から。それでさえ、おそらくこうであろう、という想像の域を出ないものです。

対談を行った奈良県立図書情報館は藤原仲麻呂邸跡のほど近く
photo:打田浩一

里中 私はその点、素人ですから、イメージとしての話になるんですけれどもね。敢えて小学生にでもわかるような言い方をすれば、昔、日本には、あちこちに強い人がいて、それぞれが自分こそが一番強い、と言っていた時代があったでしょう、と(笑)。その中で一番強い人が、やがて皆を束ねるようになると、人々はその「強い人」の家へ諸事報告をしたり、閣議をしに出向く。その最有力者の住まいが「宮」と呼ばれるようになっていった、というふうな。

 しかし大陸にはもっと強大な国家があって、それらは、海の果ての日本という土地にまで目を向けていた。そこで人々は考えるんですね。「もっとまとまらないとマズいんじゃないだろうか……」と。そういった外からの目線を意識して自国を見る、といった客観性を持った時点で、「京〔みやこ〕」の必要性を感じ始めたのではないか、と思っているんです。そうして、大陸に倣って「京」を作ろうとして試行錯誤を重ね、はじめて都市として形を為したのが、藤原京(橿原市)。

千田 藤原京造営に関しては、里中先生の著作、『天上の虹』に詳しい。

里中 いえいえ。私は先生方のお書きになったものや資料などから想像を膨らませるだけで。史実は曲げられませんが、解釈はかなり好き勝手にさせていただいていますので……。

 ただね、「見事な京」というと、「王侯貴族が贅沢に遊び暮らすところ」という図をイメージしてしまいがちですが、実情は、それとはほど遠いもの、といったことは強く感じますね。

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