2024年4月25日(木)

ひととき特集

2010年1月22日

千田 国の存亡がかかっていますからね。

里中 京の造営とは専ら外交を意識したもの。そこでキチンとした国家の形を見せておかないと、「お前の国は、ウチの国の田舎だぞ」という扱いを受けてしまう。そうなっては大変だ、と。それはもう、必死の思いで国の体制をととのえて見せる。そういった当時の人たちの気持ちが、壮大な都を作り、それが今に残る、ということにつながっていったんでしょうね。

明日香村に残る伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡。地表面の石敷き遣構は天武朝の飛鳥浄御原(きよみはら)宮のもの
photo:井上博道

千田 おっしゃる通りです。そして、そういう必死さ――「田舎者、後進国と思われたくない」という気持ちを一番強く抱いたのが、遣隋使の始まった聖徳太子の時代だと思うんですよ。

 必死の努力の痕跡をひとつ紹介しますとね。奈良盆地には上ツ道、中ツ道、下ツ道という南北に走る古代の幹線道路が今も残っているんですが、交通面だけで考えると1本で充分なんです。わざわざ等間隔で3本も道を作らなくても。ということは、おそらくこれは、隋から来た使節に対する「今、大規模な都を作っている途中です」というデモンストレーションだったのだろう、と。

里中 それは決して、今で言う、見栄っ張りという感覚ではなくて。外から来た人たちに、ここは押さえるに容易〔たやす〕い、と思われたら、どういうことになるか。その脅威を痛感していたんですね。もし、当時の人たちがそういう意識を持たず、ノホホンとしていらしたら……。

千田 そうですよ、今頃、「日本」という国なんかなくてね。我々は「你好〔ニイハオ〕」と言うてたかもしれない(笑)。

望まれなかった平城遷都?

――持統8(694)年、わが国初の本格的都市機能を備えた都、藤原京が完成。しかし和銅3(710)年には平城京へ。このスピード遷都の理由はどこにあったのでしょう? 水事情、トイレ事情の悪さ、といった説もあるようですが。

里中 本当に、あっという間に遷都してしまってねえ。独自の歴史書を編纂する、役所が機能する都を持つ、税制を整える、と「独立国家」たるべき3条件を備え、近代国家として成り立つ。そんな悲願をようやく達成したというのに、なぜそこですぐ、都遷りとなったのか。風水に則って、と言われますが、その観点からすれば、藤原京も外れてはいませんし。

千田 水事情、ことにトイレ事情というのはね、『続日本紀〔しょくにほんぎ〕』に藤原京は都市環境が悪い、といった記述があるところに、近年、発掘調査で宮域付近にトイレが見つかったのをこじつけて話題になったんですが、これを以て平城(〔なら〕、奈良市)への遷都の理由とするのは無理があります。たとえ環境問題があったにせよ、それで都が遷るということはめったになくて、これはもう、完全に政治的判断で遷っているわけです。里中先生の作品のストーリーの中では、その辺り、どう描かれていますか?

里中 私は、藤原不比等〔ふじわらのふひと〕が文武〔もんむ〕天皇に対し、チラッチラッと、小出し、且つ強引に遷都を促して……というふうに描きましたけれども。


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