赤坂英一の野球丸

2016年8月24日

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赤坂英一 (あかさか・えいいち)

スポーツライター

1963年、広島県生まれ。86年に法政大学文学部卒業後、日刊現代に入社。88年より、スポーツ編集部でプロ野球取材を担当。同社勤務のかたわら週刊誌、月刊誌で、スポーツを中心に人物ノンフィクションを多数執筆してきた。最新刊『すごい!広島カープ 蘇る赤ヘル』(PHP文庫、『広島カープ論』増補改訂版)が重版出来で2万部突破。ノンフィクション『失われた甲子園記憶をなくしたエースと1989年の球児たち』(講談社)が第15回新潮ドキュメント賞にノミネートされた。ほかに『プロ野球「第二の人生」 輝きは一瞬、栄光の時間は瞬く間に過ぎ去っていった』(講談社)『最後のクジラ――大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生』(講談社)『プロ野球コンバート論』(PHP研究所)など。

 先週末の19日、西武プリンスドームでの試合前、14日に81歳で亡くなった豊田泰光さんの追悼セレモニーが行われた。電光掲示板に豊田さんの現役時代のビデオが映され、西武の田辺徳雄監督以下、全選手、コーチ、関係者が黙祷。ベンチ入りメンバーの全員が喪章を付けてロッテ戦に臨んでいる。

 当日球場に詰めかけたファンは、豊田さんを知らない世代がほとんどだったろう。豊田さんが西武の前身・西鉄で活躍していたのは1953年から62年までの10年間で、53歳の私が生まれる前のこと。私と同年代ならフジテレビがまだ地上波で〈プロ野球ニュース〉を放送していたころ、専属解説者として采配やプレーを撫で切りにしていた歯切れのいい語り口を覚えているはずだ。が、あの番組もCSに移されて久しく、豊田さん自身がこの数年は体調を崩し、球界やマスコミの表舞台からすっかり姿を消していた。それだけに、西武球団が本拠地球場でこのような功労者を悼む行事を行ったことは非常に意義深い。

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 私が最後に豊田さんにインタビューしたのは2011年の夏だった。拙著『2番打者論』(PHP研究所)を書くためで、このころから病気がちだった豊田さんは「電話じゃいかんのか」と面倒臭がりながら、「じゃあウチに来い」と都内の自宅へ呼んでくれた。こちらが「つまらないものですが」と持参の手土産を差し出すと、それを受け取った豊田さん、背後の奥さんを振り返って「おーい、つまんねーもんだってよー!」。私が絶句していると、「おれ、ウソ言ってないだろ? あんたがつまんないもんだって言うから、女房にもつまんないもんだって教えといたんだよ」。

 とまあ、こういうツカミから入って、西鉄「流線型打線」の2番打者として鳴らした豊田さんの持論を展開してくれた。

 「手土産にいいもの持ってきたんなら、最初からいいものですよって言えばいいんだよ。それを変にへりくだってつまらないものですがって言うからおかしくなっちゃう。バントもそうだろ? 1番が塁に出たからって2番が判で押したようにバントしたんじゃ面白くなるわけない。あんなつまらない野球を流行らせたのはV9(1964〜73年の9年連続優勝と日本一)時代の巨人だよ。それなのに勝つためには必要だとか、立派な戦法のひとつだとか、ファンや評論家までそんなことを言うから野球全体までがつまらなくなっちゃう」

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