橋場日月の戦国武将のマネー術

2016年9月23日

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 慶長5年(1600年)9月15日は416年前に関ヶ原合戦がおこなわれた日(実際には新暦換算すると10月21日だが)。今年の大河ドラマもこの時期に合わせて関ヶ原合戦を織り込んで来たが、あまりにも尺が短く石田三成・大谷吉継のふたりが「いよいよだな」と語り合ったシーンだけで終わってしまい、ネット上では「超高速関ヶ原」などと揶揄されていた。

 いやまぁ、合戦場面を入れるとなると制作費がかかるなど問題もあったりするのだろうけれど。そういえば、現実の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康にもいろいろとマネーがらみの事情があったようだ。

 彼は関ヶ原合戦の直接的な引き金となる会津の上杉征伐に出陣する際、大坂城の幼君・豊臣秀頼から米2万石・金2万両を拝領した。これは現在の価値でいうとざっと25億円以上。豊富な軍資金を得て東へ下り、途中で石田三成が家康打倒の兵を挙げたのを知ると、Uターンして三成らの西軍を先に討つことを決めた。このとき、遠江国(現在の静岡県西部)掛川城主の山内一豊ら東海道沿いの城持ち大名がこぞって城、兵糧、兵士、領地の献上を申し出ている。

徳川家康(Aflo)

 
 
 

福島正則が家康に差し出した120億円の軍資金

 特に尾張国(現在の愛知県西部)清洲城主の福島正則は尾張国内の豊臣直轄領10万石からの年貢7年分、30万石の米をも「御用立てしますぞ」と差し出してしまった。これは秀吉が家康に対する備えとして正則に預けていたものだから、120億円ほどの敵の軍資金がまるまる自分の軍資金に化けたことになる。これで金に困ることは無さそうだ。

 ところが、そうは問屋が卸さない。実は、徳川家はそれまで全国にまたがる広い範囲の戦いを差配した経験は無かった。食糧や金を滞りなく後方から補給し続けるノウハウに欠けているのだ。それでも東海道は諸大名が差し出した城の米と金を消費しながら進めば良いが、中山道をのぼることになった秀忠(家康の子)の軍勢は、たちまち補給が続かずに立ち往生してしまった。

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