2024年4月19日(金)

個人美術館ものがたり

2010年3月23日

「国際通り」1954年 油彩

 油絵でも、一般に画家は晩年になると薄塗りになるようだ。セザンヌなど典型で、若いころは油絵具をナイフでぐいぐい盛り上げている。それが晩年はおつゆでさらさらと描くようになる。若いころは絵具という物質を頼りにするが、歳をとるとそんな依存心が消えていく、ということだろうか。枯れてくる、ということかもしれない。

 野口彌太郎の若いころの絵はなかなか見られないが、30歳くらいの絵がもう既に薄塗りで、しかもざっくばらんな筆使いだ。それも基礎的な描写力を通過した形のざっくばらんで、既に老成という言葉さえも頭に浮かぶ。ざっくばらんというよりむしろ乱暴という感じさえして、おつゆの溶液が垂れるまま描き進んだようなその絵は、彼の中のアバンギャルドであったのかもしれない。

 ここに載せた絵は、野口55歳の作品で、雰囲気がとても楽しそうだ。国際通りとは、長崎の佐世保らしい。絵の中にはアメリカ駐留軍の兵士らしき人々がちらほらといる。夕暮れで、日本の女性がお相手をする横を、天秤棒を担いだ物売りが通ったり、三輪自転車が荷物を運んでいたり、俗世間というものの空気が濃厚に描かれている。外人兵士の鼻がぴゅんと高く、狐みたいなのも愛嬌がある。

ライカとその付属品一式が詰まった小型トランク(右下)

 野口彌太郎は長崎の風景をたくさん描いている。長崎は郷里というわけではなく、住んだこともないようだが、長崎の町の空気が好きでよく描いている。戦後両親が郷里の諫早に戻ったので、それで長崎の町によく立寄るようになった。その時期には毎年のように長崎旅行の絵を残し、よほど好きになったのだろう。長崎は北海道を別にすると、海岸線が日本で一番長い県だ。それだけ入り組んだ地形なので、いきおい坂も多く、しかも歴史も古い。毎年のように訪れたという気持はよくわかる。そのこともあって、この記念美術館は長崎に造られた。

 生れは1899年、東京の本郷である。父は銀行家で、経済的には恵まれていた。画家となった30代に渡欧し、サロンドートンヌに出品もしている。戦後もまた渡欧している。

 この記念美術館には野口彌太郎の使ったイーゼルや絵具箱などが展示されている。その中にカメラが1台。よく見ると、何とライカⅠ型だ。初期のライカで、距離計もまだ付いてないタイプだが、当時ではそうとう高価なものだ。うーん、これを持っていたのか、と思いつつその横を見ると、付属品一式を詰めたライカ純正の小型トランク。交換レンズや各種フィルター、距離計など、これは本格的だ。凄い。たんに裕福というだけでなく、画像、映像、そのもとである風物を見ることが好きだったということが、じつによく察せられる。

 いまこの野口彌太郎記念美術館は、平野町の平和会館1階にある。美術館としての施設ではないので、ゆっくりと鑑賞するにはいささか難がある。照明の反射や作品の前のちょっとした障害物など、絵を見ていきながら、どうしても気になる。展示設備というのは微妙な心くばりがいるものだと改めて思った。とくに野口彌太郎の絵のように、ざっくばらんな絵の味わいというのは、きっちりとした環境にあってこそオリジナルとして輝いてくる。 


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