中国という鏡に映った日本人の自画像

2016年11月16日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知大学現代中国学部教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

 (高杉晋作たちが上海に渡った)当時、清国側は正式の通商関係がないことを理由に、幕吏に対し、オランダ商館を通しての交渉を求めている。勢い込んで乗り込んだと思われる幕吏は、さぞかし肩透かしを食らったはずだ。だが考えてみれば、清国側に理があったといわざるをえない。

一日の長があった清国外交

1875年の上海港(iStock)

 それというのも1840年に勃発したアヘン戦争に敗北して以来、南京条約や北京条約など、屈辱的とは言いながら西欧諸国と外交交渉を重ねてきた。それだけに外交関係については長い鎖国に慣れた日本と較べ、清国側に“一日の長”があったということか。

 某日、幕吏はオランダ公使の許を訪ね、千歳丸による渡航の当初目的である上海港での貿易の可能性について打診した。石炭や人参など、持参した品々が当初の目論見と違って売りさばけそうにない。オランダ側は値引けば売れると助言するが、長崎の相場に較べ安すぎる。かくして、持ってきたものをそのまま持ち帰るしかなかった。幕吏も長崎商人も国際貿易の現実を知らされたことだろう。鎖国が引き起こしたゆえの情報音痴という弊害か。

 某日、上海の行政を預かる道台の呉某がオランダ公使を訪問するというので、日本側はオランダ公使の許に出向き、道台と面談する機会を得た。両者の会談の模様を、鍋島藩藩士で後に海軍大学校長、軍令部長、枢密顧問官などを歴任した中牟田倉之助(天保8=1837年~大正5=1916年)が記録している。上海滞在時の中牟田は、なんと25歳!

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