橋場日月の戦国武将のマネー術

2016年11月17日

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 バブル時代やITバブル時代にはよく臨時ボーナスという言葉を聞いた。業績が良い会社が全社で大パーティを開催し、そこで「社員みんなに利益を還元する!」と宣言して100万円などの金額の一律支給を発表、会場は「ウオーッ!」と興奮のるつぼと化す、といった場面もあった、らしい。残念ながら筆者にはそういう経験は無いが。いや実際そんな所に勤めていた社員さんたちは、さぞやモチベーションが上がっただろう。

 戦国時代、それをすでにやった人物がいる。その人物の名は、史上有数の成り上がり男・豊臣秀吉。

 天正10年(1582年)5月から始まった備中国(現在の岡山県)高松城攻めで、秀吉は半月足らずで長さ4キロメートル、高さ8メートルの巨大堤防を築き、高松城は水没した。

 堤防に使う土俵1個につき銭100文と米1升を支払うという触れを近在にまわし、結果、この堤防には63万5000貫あまりと米6万3500石あまりが投入されたと『武将感状記』(江戸時代中期に編まれた逸話集)にある。この年の米の値段をもとに1貫を現在価値になおして9万円とすると、およそ600億円ほどとなる。少し金額が大きすぎるが、話半分以下としても巨額の投資だったことは間違いない。

 天正10年(1582年)5月20日。堤防は見事に完成した。おりから季節は梅雨。あっという間に城内は水に浸かり、一帯は湖のようになった。あとは高みの見物を決め込んで主君・織田信長の出陣を仰ぎ、毛利軍を一気に粉砕するだけだった。

高松城陥落前に本能寺の変が勃発

 ところが。6月2日早朝、京・本能寺に宿泊した信長が、重臣の明智光秀に急襲され命を落とすという一大事が勃発する。「本能寺の変」だ。その知らせを受けた秀吉は、ただちに毛利軍と講和して軍勢を東に反転させた。「中国大返し」と呼ばれる強行軍で、6日(諸説あり)に高松城から兵をひいた秀吉軍2万人は、岡山城の東の沼城で1泊し、翌日70キロメートルを1日で走破して姫路城に帰り着いた。

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