2024年4月25日(木)

ベストセラーで読むアメリカ

2010年4月19日

 特に、奇襲部隊出身のSarfrazという男は優秀だ。次の言葉は名言だ。

 “To have much success in Afghanistan, you must understand style,” he would patiently lecture me again and again. “Style is everything here.” (p107)

 「『アフガニスタンでうまくいくには、スタイル(立ち居振る舞い)を理解しなければだめだ』彼は繰り返し私にレクチャーしてくれました。『ここではスタイルがすべてだ』」

 さまざまな、宗教や民族、文化が入り交じるアフガニスタンでは、相手のスタイルを理解し相手の流儀に合わせることが、よそ者である自分の安全を守ることにつながる。それだけに、周囲の人々の立ち居振る舞いに注意を払いながら旅を続ける。例えば、次のような具合だという。

 In any given situation, regardless of whether it involved an all-night negotiation with a group of conservative mullahs or a five-minute break at a roadside tea stall, he paid keen attention to the body language of everyone involved. Who sat where and why? Who sipped his tea first and who hung back? Who spoke and who remained silent? Who was the most powerful person in the room, who was the weakest, and how did their respective agendas influence what they were saying? There can be many layers and shades of meaning within each of these distinctions, and by responding to them all with equally subtle adjustments of his own, Sarfraz strove to avoid drawing unwanted attention either to himself or to me. (p107-108)

 「どんな状況下でも、その場に居合わせるすべての人の身ぶりや手ぶり、表情などのボディーランゲージに彼は細心の注意を払います。村のイスラムの保守的な長老たちとの徹夜の交渉であれ、道ばたの喫茶店でお茶を飲んで5分休憩する時であれ。誰がどこに座り、それには何か理由があるのか? 誰が最初にお茶を口にして、だれが遠慮しているのか。誰がしゃべり、誰が黙っているのか。部屋の中で1番偉いのは誰か、1番の下っ端は? そして、発言の裏にあるそれぞれの思惑はなにか? これらを区別することで、序列や濃淡の違いを見分けられることがあるのです。こうした微妙な違いに対し、自分自身も微妙に調整しながら対応することで、Sarfrazは自分自身や私に対し、望まざる関心が集まるのを避けるよう努めているのです」

 筆者たちが現地で活動する際、細心の注意を払っていることがよく分かる。善意だけを頼りにアフガニスタンに飛び込んでいっても危険なだけだ。筆者は学校をつくるという夢を、ただ何も考えずに無謀に追い求めているわけではない。現地の最新の様子を描きながら、出会った人々やエピソードを語る本書は、ボランティア活動の実態を描く単なるお涙ちょうだいの感動作などではない。前作の「スリー・カップス・オブ・ティー」が、軍関係者の必読書とされていることもうなずける。

 筆者が途上国での学校建設に熱意を燃やす背景には生い立ちも関係している。幼いころにタンザニアで暮らしていたというのだ。

 In the spring of 1958, when I was three months old, my parents moved our family from Minnesota to East Africa to teach in a girls’ school and four years later helped establish Tanzania’s first teaching hospital on the slopes of Mount Kilimanjaro. My sisters Sonja and Kari and I attended a school where the children hailed from more than two dozen different countries. (p42)

「私がまだ生後3カ月だった1958年春、わたしの両親はミネソタ州から東アフリカに引っ越し、現地の女の子向けの学校で教べんをとりました。その4年後に、キリマンジャロの山麓にタンザニア初の付属病院を建設するプロジェクトに従事しました。私の姉のソーニャとカリと私は、30カ国近くから子どもたちが集まった学校に通っていました」

 アメリカ国内から海外に出ることもなく一生を終える多くのアメリカ人とは違って、筆者にはもともと国際的な視野が備わっていたことを知り納得がいった。

 なお最後に、ある意味で本書に登場する唯一の日本人についてふれたい。パキスタンの奥地の風景や人々をとらえた写真が各章の扉に添えられている。そのなかの何枚かには、TERU KUWAYAMAというクレジットをつけている。日本人カメラマンのようだ。日本人読者としては、同じ日本人の活躍が誇らしかった。

 


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