2024年4月19日(金)

古都を感じる 奈良コレクション

2010年5月7日

 一行は皇帝(粛宗)に会うことができた。皇帝から「弓を造るために牛の角がほしい」と依頼されたため、帰国後に7,800本の牛の角を用意することになるのだが、清河を連れ帰ることはできなかった。『日本紀略』によれば、皇帝が寵愛して離さなかったらしい。このとき清河は「悲しみ傷(いた)み涕(なみだ)を流す」とあり、望郷の思い切なることがうかがえる。

観音菩薩立像
中国 唐・神龍2(706)年
ペンシルバニア大学博物館蔵
Loaned by the University of Pennsylvania Museum of Archaeology and Anthropology, Philadelphia, U.S.A.
遣唐使が、唐で目にした仏像の姿がしのばれる。

 羽栗翔も日本に帰らなかった。清河に仕えたというが、その後のことはわからない。しかし、およそ80年後、ある人物によって日記にその名が記されることになる。

 比叡山延暦寺の円仁は承和5年(838)に入唐した。これが結果的に最後の遣唐使となる。円仁は天台山へ勉強に行くつもりが中国側の許可が下りず、失意のうちに帰国せねばならなくなった。しかし、求法の思いを抑えがたく、五台山へ向かう。これが日本の仏教を大きく変えることになるのだが、山東半島の登州(とうしゅう)開元寺で宿泊した際、堂内の壁に西方浄土と補陀落浄土が描かれているのをみつけた円仁は、薄れて読みにくくなっていた願主の名を日記に書き付けた。円仁は彼らを知らなかったが、そのなかに羽栗翔の名があった。およそ80年前、高元度一行もこの寺に滞在したのである。

 清河の娘の喜娘は日本に来ることができた。宝亀8年(777)に入唐した遣唐使の帰りの船に乗って日本に到ったのである。宝亀9年に日本へ向かった遣唐使船のうち、第一船は波に翻弄されて63人が水死、船も真っ二つに裂けたが、舳(へさき)に56人、艫(とも)に41人がしがみついて日本にたどり着く。喜娘は艫にしがみついていた41人のうちのひとりだった。そののち喜娘がどういう人生を送ったのかはまったく知られていない。無事に帰国した別の遣唐使船には、40数年ぶりに唐の土を踏んだ羽栗翼が乗っていた。翼は『宝応五紀暦経』(唐で使われていた暦)をもたらしたが、この暦は採用されなかった。

 遣唐使の母が、旅立つわが子のために詠んだ歌が『万葉集』に収められている。

旅人の宿りせむ野に霜降らば
 
    わが子羽(は)ぐくめ天(あめ)の鶴群(たづむら)

 旅人が夜宿る野に霜が降りたなら、わが子を羽で包んで温めてやっておくれ、天をゆく鶴たちよ。

 奈良時代の人々は真剣だった。国づくり、ものつくりに、本当に真剣だった。

 遣唐使には命をかけても伝えたいものがあった。

 彼らの真剣さは、当時の中国の人々の心を打ち、そして21世紀の私たちの心をも打つ。


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