したたか者の流儀

2017年3月5日

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パスカル・ヤン (Pascal Yan)

著述家

著述家。ルーヴァン・カトリック大学大学院中退(ベルギー)。証券マンとして25年間、欧州を中心に海外で過ごす。現在の職業は都内大学教授。

 

不遇な晩年

 船の名前ではなく、本物の白瀬中尉の伝記は小学学級文庫の定番であったが、実は晩年は不遇であったようだ。晩年というより開闢いらい苦難の連続であった。探検家になったために波瀾万丈の人生であった。軍隊で中尉にもなれば、平穏な人生もあったであろう。東北人のねばりと頑張りなのだろうか。

 寄付を募りやっとの思いでボロ船を調達して南氷洋に向かえば、犬は死滅し、内部分裂が起きたりしている。前哨戦の千島探検でも多くの死者もでている。寒さだけではなく脚気や壊血病との戦いもあったはずだ。そんな、白瀬は探検募金の持ち逃げにもあっているそうで、後半生はその資金の返済についやされている。

 そもそも国家プロジェクトで南極探検に乗りかかったはずだった。国の援助もそれなりに決まったようだが、お役所的判断でプロジェクトは頓挫、個人プロジェクトとなった。

 実は、当時日英同盟の最中で、英国王立探検隊のスコットも南極を目指すことがわかり、妨げになるのではないかという忖度が政府にあったという。国家支援の白瀬隊が先に南極点に到達したらいけないとの忖度であったと聞いた。

 そんな時、下野していた大隈重信が動いて出発に辿りつけたようだが、それまで二転三転していた。義理のある大隈の名を白瀬は南極の地に着けたが、その他の名も含めて太平洋戦争の無条件降伏で大和雪原名とともに取り消しになった。

 白瀬は帰国後持ち逃げされた金の返済に追われて、あちこち講演会で稼いだようだが、最晩年は、故郷の秋田から遠く離れ、豊かでない娘の家で、名もなく死んだとのこと。1946年であった。つらさを求める求道者のような人生であっただけに、むしろ最晩年の赤貧は満足であったのかもしれない。とはいえ敗戦という異常値を割り引いても、花が添えられる終焉でもよかったはずだ。

 しかし、天は正義に味方する。1955年の国際地球観測年に、日本は南極観測参加を表明したが、敗戦国であり資格無しとされたが白瀬中尉の南極探検実績を示したお陰で辛くも他の先進国並の地位を得た。敗戦国日本がいち早く南極探検に加われたのも白瀬の存在はきわめて大きい。
再評価され没後10余年の1960年に白瀬矗が越冬服を着た写真の10円の記念切手にもなっている。初代南極越冬隊長となる西堀栄三郎は、白瀬の講演を聞いて極地研究家になったそうだ。

 地球温暖化を研究する南極観測の裏に立派な日本人がいたということを忘れたくない。“しらせ”は白瀬中尉のことだ。青年たちは知っているだろうか。

  
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