万葉から吹く風

2010年6月14日

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多田一臣

1949年、北海道生まれ。東京大学大学院修士課程修了。東京大学文学部教授。『古代文学表現史論』(東京大学出版会)、『万葉集全解』全7巻(訳注、筑摩書房)ほか著書・注釈書など多数。

 なまの言葉で悪口をいうと、相手の感情を害してしまうし、時には取り返しのつかない事態を引き起こすこともある。しかし、歌だとどうだろう。

勝間田〔かつまた〕の池は我〔われ〕知る蓮〔はちす〕なし
しか言ふ君が鬚〔ひげ〕なきごとし
                                       
                (巻16-3835)

 「勝間田の池は、私もよく知っていますが、蓮〔はす〕なんかありません。ちょうど蓮があるとおっしゃるあなたに、お鬚がないのと一緒です」というくらいの意味だろう。

photo:井上博道

 これがどうして悪口になるのか。ここには、次のような説明がついている。ある時、新田部親王〔にいたべのみこ〕が、勝間田の池をご覧になって、その様子にいたく感動し、邸〔やしき〕に戻ってから、側にいた女性に「今日遊びに出て、勝間田の池を見たら、水の影は波に揺れ動き、蓮の花が今を盛りと咲いていた。言葉にできないほど美しい景色だった」と語ったところ、その女性が、戯れにこの歌を作ったのだという。

 古代の男たちは、一人前になったら、顔に鬚がなければならなかった。昔のお札の聖徳太子にもりっぱな鬚があるし、『源氏物語絵巻』の男たちもみな鬚をたくわえている。出家することを「鬢髪〔ひげかみ〕を剃除〔そ〕る」(『日本霊異記』)といった。頭をまるめるだけでなく、鬚を落とすことが、俗人ではなくなった証しとされたのである。

 だから、「鬚がない」というのは、一人前の男に対して、いわば身体的な欠陥をあげつらう、大変な侮辱になるはずの言葉だった。たぶん新田部親王は、鬚の薄いたちだったのだろう。この悪口が戯れですまされるのは、それが歌によるものだったからに違いない。歌の功徳とでもいうべきか。

 もう一つ、この歌には興味深い仕掛けがある。この女性は、どうやら新田部親王の愛人だったらしい。この歌の「蓮〔れん〕」には、「恋〔れん〕」の意が掛けられている。中国の小説『遊仙窟〔ゆうせんくつ〕』の影響による文字遊びである。そこで、「蓮なし」には、「私への愛情が、最近はめっきり薄いではありませんか」という訴えが隠されていたことになる。一種の媚態〔コケットリー〕であり、こんなふうにいわれたら、いくら悪口でも、新田部親王は微苦笑せざるをえなかっただろう。

 天平期の爛熟した文化は、こんなやりとりを成り立たせていた。

 なお、勝間田の池は、『枕草子』にも出てくる池だが、所在不明。薬師寺近くの俗称大池のことだとする説もあるが、よくわからない。新田部親王の旧宅址が唐招提寺だから、いずれにしても、この両寺の近くにあった池だろう。


◆ 「ひととき」2010年6月号より

 


 

 


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