2024年4月19日(金)

Wedge REPORT

2009年2月20日

現場に権限はある
されど起こらぬ復活への動き

 いったいどうして復活への機運は盛り上がってこないのだろうか。

 日本の教育行政は、文科省、都道府県教育委員会、市区町村教育委員会、そして学校、さらに教育学と、その主体が混在し、責任の所在が不明確な構造がある。よく、日本の文部行政は、文科省を頂点とするピラミッド体制による中央集権だと言われる。しかし、今回の統一学力テストによってそれは違うということが見えた。愛知県犬山市はこのテストに参加していない。公開の在り方は、地方によってばらばらだ。

 今回、都道府県別の結果が文科省によって公開されたが、小中学校の設置者は市町村である。今私は、教育委員として大阪府の低い成績を何とかしようと思い、改革を提起しているが、その指導をどこまで受け入れるかは、市町村の教育委員会に委ねられる。ところがその一方で、子どもの指導にとってもっとも重要な教育課程の編成権は学校にあるという、法律による原則がある。つまり、最終的には校長の力量が確かでないと、すべては台無しになる。

 私も現場にいたころ、現場の閉塞感は文科省による上意下達のせいだと思っていた。しかし今、文科省や府県や市町の教育委員会など、いろいろなところで話を聞いていると、府県や市町の教育委員会や校長が、自分にとって都合のいいことを言い、その理由を文科省の指導のためと言っている場合もずいぶんあることがわかってきた。

 むしろ今の教育行政は、地方分権が模索され、統制は緩くなっている。そして、もともと政治からも独立している。つまり、教育委員会の独立性は相当に強いのである。今回、大阪で、知事の発言から始まった教育委員会改革の動きは、教育委員会が独善に陥りやすい要素を持っていることを提起したと言っていい。

 つまり、現場に権限があるにもかかわらず、学力復活への動きが起こってこないということだ。
その第一の理由は、校長人事の問題である。日本の教育では、その成果は教師の個人的力量に求められ、そもそも学校経営があまり重視されない。そのため、校長はだいたい退職間際になって1~3校を3年から5年勤めて上がりとなる。そうなると、どうしても大過なく過ごすということになりがちである。

 そもそも、指導力のある教師は、校長職をねらわず、生涯一教師を目指す。なぜなら、教師を志望する人間というのは、大人のどろどろとした関係を苦手とし、子どもとその関係者である保護者相手の指導の方がいいからである。一方で、子どもが苦手なのに、安定しているなどの理由で、間違って教師になってしまった教師には、ときとして早く管理職を目指すという者がしばしばいる。また、校長は校長で職員会議の場などにおいても文科省や教育委員会から言われたことを右から左に現場に伝達する。なぜなら、変に意欲を出しすぎて上から言われたこと以上のことをしようとすると、責任がすべて自分に被るからである。

 こうした頼りない校長は、管理職を目指さない実力ある教師を重用するが、その影響力は教師が担当する学級にしか及ばない。力のある教師にとっては、それはそれで居心地がいい。ここで、他の世界にあり得ないような、利害の一致ができあがってしまう。その結果、力のある教師の指導力量は若い教師など学校全体に伝えられることはなく、結果的に、全体的には実践の停滞につながる。

 これに、社会的要請から乖離しがちな教育界の閉鎖性が拍車をかける。教育委員会にしても、ある学校が突出していい実践をすると、それを広めることが求められる。だが、そうすると現場では仕事が増える。だから、現場では意欲のある教師がそうした実践校を視察したいと提案しても、それを止めさせる校長が存在しているという事実を私は知っている。視察できるのは教育委員の息のかかった学校だけ、ということなのだ。同様に、若い教師の中には、自主的な研究会をやろうとする教師も多いが、教育委員会や校長が、それらの取り組みに対していやな顔をするという事例も多いのである。このように現場では、少しでも仕事が増えないよう横並び主義が蔓延し、自ら停滞を助長しているのだ。他の業界にはないことではないだろうか。

 もちろん、すべての地方がこうなっているわけではない。前向きに取り組んでいる地方もある。文部行政が歪んでいるかどうかは、指導力があると評価されていた教師が、校長になっているかどうかでわかるのではないだろうか。


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