2024年4月19日(金)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2017年6月6日

 母親にクビになったことを告げたが、それ以外は放心状態だったので覚えていないという。明日からどうするべきか。言いようのない不安が奥村の心を曇らせた。挨拶回りをするうちに、打撃投手として球団に残れる道を得て、裏方の道に進むことに決めた。

裏方でも戦力外通告
迷走した第二の人生

 1年が過ぎ、裏方としての仕事も随分と板についてきた頃、奥村は球団事務所に呼び出され、来季の契約をしないことを告げられた。

 「今度こそ、本格的に不安になった」

 他球団で裏方を続ける道もあった。しかし、「若いうちに外に出た方がいい」と考えるようになり、ついに奥村は野球界を去る決意をした。友人とともに、大阪でバーを開いた。

 元来、真面目な性格である。バーで働くなら調理師免許をもっておいたほうがよいと思い、調理師学校に通い始める。免許を取るために、所有していた車を売却し、契約金も使いながら、学校に通った。朝までバーで働き、そのまま学校へ。体力的にも経済的にも苦しい中、街は阪神の快進撃に沸き返っている。03年といえば、2位に14・5ゲーム差をつける圧倒的な強さで優勝した年。自然と入ってくる阪神の情報が、野球から距離を置こうとしている奥村を苦しめた。

 そのうち、「自分の選んだ道は正しいのか、日に日に焦燥感が募り」バーをやめ、大阪の帝国ホテルの調理場でアルバイトとして働き始めた。その後、一緒にバーを開業した友人は、病に倒れ、帰らぬ人となった。

 04年。会計士という仕事があることを知った。「簿記の知識をもとに、ビジネスのスペシャリストとして活躍できる」という言葉に、思わず鼓動が高鳴った。

 「俺、簿記やってたな」。土岐商業高校時代、全生徒を簿記検定2級に合格させるという学校の方針があった。奥村は高校2年時に合格していた。「簿記」というキーワードが、奥村のスイッチを入れた。

 「会計士になれば、経営のサポートができる。ビジネスやお金に詳しくなれば、選手のセカンドキャリアもサポートできる。自分のような境遇の人も、救うことができる」

 予備校に通いつつ、ホテル、宅配、深夜のネットカフェなどでバイトを続けた。07年には簿記検定1級に合格。通っていた予備校の運営企業に入社することも決まった。その会社は、資格取得のサポートをする企業。その中には会計士になるプログラムもあった。働きながら勉強する環境を手に入れ、いよいよ会計士挑戦への道が本格化した。

 会計士の試験には、短答式の1次試験と論文式の2次試験がある。1次試験に合格すると、2次試験は1次試験を受けることなく、3回まで受けることができる。ここで3回続けて不合格になることを、その世界では、「三振」と呼ぶ。奥村は、11年に三振を喫した。


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