この熱き人々

2017年7月20日

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吉永みち子 (よしながみちこ)

1950年、埼玉県生まれ。85年、『気がつけば騎手の女房』で大宅壮一ノンフィクション大賞を受賞。著書に『母と娘の40年戦争』(集英社文庫)、『怖いもの知らずの女たち』(山と溪谷社)、『試練は女のダイヤモンド』(ウェッジ)などがある。

理想の表現をかなえる画材を求め、たどり着いた地は日本だった。身近にある自然の中に美を見出し、その内面までも描き出す。繊細な感性がとらえた独特の世界が、多くの人々の心をつかんでいる。

 狭い路地の両側にお寺が続く東京・台東区谷中の寺町、樹齢90年を超える巨大なヒマラヤ杉がそびえる三叉路近く。「谷根千(やねせん)」と呼ばれる谷中、根津、千駄木付近は路地散策の人の姿が多く見られるエリアだが、雨の夕刻はさすがに人通りもほとんどない。が、三叉路を右に入ると路地に人だかりができていた。外国人観光客や日本人の若いカップルに老夫婦。そこが「繪処(えどころ)アラン・ウエスト」だった。

 外から覗くと正面奥が作業場になっていて、筆を運ぶアラン・ウエストの姿が見える。両側には、照明を抑えた中でほのかな光を発する屏風や掛け軸など、アランの作品が展示されているので、ここはアトリエ兼ギャラリーということになるが、あえて「繪処」。

 

 「アトリエと言ったら、仕事の邪魔になるかなって、人は入るのを遠慮しちゃうかもしれない。ギャラリーや画廊も、買わせられそうとか勧められたらとか、気になるでしょ。それで繪処。入口の看板の繪という字は、糸偏に人と画、その下に円と書いて「 」。人は画という糸でつながって円となるという意味を込めています」

 
 
 

 自由に出入りして、作業する姿も作品も見てほしい。画家や画壇という言葉が知らずに宿してしまっている敷居を取り去って、もっとフラットに人と画家と作品が近づいて一体化したい。繪処という言葉には、アランの基本的な姿勢が込められていたのだ。

 もちろん気に入ったら購入することもできるし、ひとときを楽しんでもらってもいい。現在アランの仕事は注文制作が8割。個人からの注文はもちろん、寺社、企業、ホテル、イベントホール、自治体、レストランなど多岐にわたっている。

 「ここを借りた時は、自動車整備工場だったから床は土間。壁に工具が下がり、天井はすすだらけ。まず床を上げて、シャッターをガラス戸にして、玄関部分はお寺の門を譲り受けて移し、天井画を描きました。お金を貯めて少しずつ改修していったんです」

 この地を繪処と定めたのは1999年。理由は日本画の画材店が近くにあったから。しかし、その前にアメリカのワシントンDC生まれのアランが、日本に移り住むようになるまでの道のりがある。初めて日本に来たのが20歳。一度帰国した後に再び来日して、東京藝術大学大学院日本画科の研究室に入り、加山又造に師事。すでに日本での暮らしは35年になる。

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