2024年4月24日(水)

オトナの教養 週末の一冊

2017年6月23日

――ところで、分断された国の中で、排斥運動などを行う団体に共通しているのはナショナリズムへの熱さだと感じます。分断とナショナリズムの関係について社会学ではどう考えるのでしょうか?

塩原:排外主義とナショナリズムの関係を考えるには、オーストラリアの人類学者ガッサン・ハージが提起した「パラノイア・ナショナリズム」という概念が有効でしょう。それは、既得権益を失いつつある中間層の人々のパラノイア、つまり被害妄想がナショナリズムとして活性化するという議論です。

 グローバリゼーションは、資本主義市場経済における競争を激化させます。すると、競争に勝ち残るために際限なく時間短縮・効率化を推進する、社会の「加速化」が起こります。しかし、そのような加速する競争に勝ち残れるのはごく一部の人々で、その他大勢の人たちの生活からは「居場所」や「ゆとり」が失われていく。

 「居場所」は、私たちが自分のいる場所を自らコントロールする力によって生まれ、「ゆとり」とは私たちが自分の時間を自らコントロールする力のことです。つまり、「居場所」や「ゆとり」がないということは、私たちが誰かに時間や空間をコントロールされているということです。こうした状況がどんどん深まると、我々の経済社会的な立ち位置は、どんどん不安定になる。自分の人生が「流されていく」のでは、誰かに自分の人生が操られているのでは、いずれ自分は「用済み」となり、廃棄処分になってしまうのでは、という不安が高まる。このように不安定な状態に置かれた人々のあいだに漠然とした不安が広がっていくことが、現代社会の特徴だと言われています。

 こうして不安定になり、不安になった人々は、傷つきやすくなります。だから「傷つきやすさ」は個人の精神状態であると同時に、経済・社会的な不安定さに人々が晒されているという問題でもあります。傷つきやすくなった人々の間でしばしば起こるのは、自分たちを不安にさせている原因探しです。その原因として難民や非正規入国・滞在者、生活保護受給者、国内のマイノリティといった自分より弱い立場の人が槍玉に挙げられ、抑圧移譲が起こります。実際にこうした社会的弱者が多数派の人々の既得権益を脅かすとすれば、よほどのことですが、冷静に分析してみればそのような主張には確たる根拠がないことも多い。にもかかわらず被害妄想に囚われた人々は、マイノリティを排除して、マジョリティ国民たる自分たちの権益を「守る」あるいは「取り戻す」ことを目指し、国家にそれを期待する。それをメディアが煽ったり、ポピュリズム的な政府が利用する結果、移民・難民の排斥や福祉受給者へのバッシングといった排外主義的なナショナリズムが様々な国で台頭する。

――冒頭でもお話いただきましたが、こうした分断を乗り越える鍵となるのが「想像力」であると。ただ、先生が言う「想像力」とは、小学校のときに道徳で習う相手の立場に立って考える、ということではないですよね?

塩原:それは意表を突かれた質問です(笑)。道徳の授業で「他人の気持ちになって考えましょう」と教えているとしたら、それはそれで良いことだと思います。でもそれは多分、他者への「共感」のすすめです。共感とは「他者の経験や感情を自分のことのように感じる」と定義できます。しかしこれまで述べたように、分断とは他者と共感することが非常に難しい状況、お互いに反感や憎悪を抱きあっている状況、そもそも他者が存在することが私たちの視野に入っていない状況を言います。それを打開しようとするとき、共感のすすめだけでは限界がある。だからこの本ではあえて、共感と想像力を区別することから始めています。

 本書では他者に対する想像力を「個人が知識を活用しながら、自らの共感の限界や制限を押し広げて、他者を理解しようとする努力」と定義しています。そしてこの定義は、人は他者のことを100パーセント理解することは不可能なのだ、というところから出発しています。他人は自分とは違うのだから、100パーセントは理解できない。それでも、他者とそれを取り巻く現実について学ぶことで、少しずつ、理解していくことはできる。結果的に共感できなかったとしても、理解を深めることはできる。

 ということは、想像力は自然に養われるものではなく、知識とともに「学ぶ」ものでもあるということです。だから他者に対する想像力を培うことは、大学教育の重要な目的になります。大学は基本的に知識を学び、知るために通う場所だからです。知ることを通じて他者への理解を深めていく知的営みとしての想像力を学ぶこと、そこに、大学における教養教育や人文社会系教育のひとつの意義があると私は思っています。


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