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2019年9月24日

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美土路昭一(みどろ・しょういち)

スプリングボクス(南アフリカ代表)のシヤ・コリシは目を閉じ、口を大きく開けて南アフリカ共和国の国歌を歌った。

今月21日にあったラグビーワールドカップ(W杯)日本大会の1次リーグB組、ニュージーランド戦の試合前のことだ。

コリシは1891年から続く南アフリカ代表チームにおける、初の黒人のキャプテンだ。

白人のスポーツ

アパルトヘイト(人種隔離)政策が取られていた南アフリカの代表はかつて、白人選手のみで編成されていた。

南アフリカでラグビーは、アパルトヘイトを推進したオランダ系白人、アフリカーナが熱狂するスポーツだった(南アフリカに遠征に来るニュージーランド代表オールブラックスから、マオリ系選手が除外されたこともあった)。

スプリングボクスは「スポーツウェアを着た差別」と呼ばれ、グリーンとゴールドの代表ジャージーや胸のスプリングボク(南部アフリカに生息するガゼルに似た動物)のエンブレムはアパルトヘイトの象徴だった。

黒人など非白人はスプリングボクスを忌み嫌い、国際試合では常に対戦相手を応援した。

その苦難の歴史は、国歌にもうかがえる。

まず、黒人がアパルトヘイト抵抗運動の中で歌った賛美歌「神よ、アフリカに祝福を」がコサ語など土着の3言語で歌われる。

続いて、約40年にわたってアパルトヘイト政策を推し進めた白人政権時代の国歌「南アフリカの呼び声」がオランダ語系のアフリカーンスなど2つの白人言語で歌われる――。

黒人キャプテンのコリシは、横浜国際総合競技場の6万人を超す観客の前でこの国歌を歌い、戦いの舞台に臨んだのだった。


差別と闘った白人選手

南アフリカのラグビー界で、1970年代から1980年代にかけて差別と闘った白人選手がいた。「チーキー」の愛称で知られたダン・ワトソン。南アフリカ大統領府のサイトが、後に叙勲した際に経歴を紹介している。

チーキーは、地元ポートエリザベスで黒人と分け隔てなくラグビーをしたことで当局に目をつけられ、白人社会でのけ者にされた。

スプリングボクス入りの一歩手前の選手で、選考試合に招集されたがこれを辞退。兄弟と共にタウンシップ(黒人居住区)のクラブに加入し、黒人選手とプレーするようになった。

やがてワトソン一家はアパルトヘイト抵抗運動に引き込まれていき、1980年代にかけて白人側から銃撃や放火などの迫害を受けた。白人と黒人の交流がないどころか、それ自体が法律で禁止され、白人社会では「罪」だった時代がかつてはあったのだ。

チーキーの闘いが始まってから約20年後の1995年、アパルトヘイト撤廃で国際舞台に復帰した南アフリカで、第3回のW杯が開催された。過去2回は制裁で出場できなかったスプリングボクスは、初出場で劇的な初優勝を飾った。

ワンチーム・ワンカントリー

初の全人種参加の総選挙でネルソン・マンデラ大統領が誕生したのは、W杯開幕のわずか1年前だった。マンデラ大統領は黒人政権誕生に不安を募らせる白人の心をつかんで融和を進めるため、スプリングボクスを「マイ・ボーイズ」と呼んで応援した。

スプリングボクスのジャージーを着て決勝に現れたマンデラ大統領が、フランスユグノー移民の末裔、フランソワ・ピナールに優勝杯のウェブ・エリス・カップを手渡したシーンは、スポーツの枠を超えた歴史的な場面となっている。

この大会でスプリングボクスは「ワンチーム・ワンカントリー」を掲げた。大統領の思惑とは別に、人口の多数を占める黒人も含めた国全体から応援される存在になろうという決意の表れだった。

そして、彼らがこのスローガンを真に体現できたのは、カラード(有色人種)のWTBチェスター・ウィリアムスの存在があったからだった。

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今大会は11人が非白人

「黒い真珠」と呼ばれたチェスターは、負傷で開幕時は代表から外れ、スプリングボクスは全員が白人選手という編成でW杯を戦っていた。

しかし、他の選手が出場停止処分になったことで、チェスターが追加登録。最初に出場した準々決勝の西サモア(当時)戦で4トライの大活躍をみせ、非白人からの支持を一気に広げたのだった。

それから約四半世紀が経った。この間、改革はゆっくりと進んできた。

1995年はチェスター1人だった南アフリカ代表の非白人選手は、今大会では11人まで増えた(開幕時点)。その1人、テンダイ・ムタワリラは、W杯通算トライの最多タイ記録を持つ元代表ブライアン・ハバナとともに、南アフリカ全体で6人しかいない「100キャップ」(キャップは国代表同士の試合の出場歴)の達成者だ。

2008 年には、スプリングボクス初の黒人監督が誕生した。オリンピックで実施される7人制の代表「ブリッツボック」では、今大会のスプリンボクスでアシスタントコーチを務めるムズワンディル・スティックら、非白人が既にキャプテンを務めるようになった。

そして、昨年5月、本丸とも言えるスプリングボクスのキャプテンにコリシが指名されたのだった。

変革の推進者として

コリシは南アフリカ南部の大都市ポートエリザベス近くの、貧しいタウンシップで辛い幼少期を送った。

しかし、12歳の時にそのプレーが認められて人生が一変。ラグビー奨学金をもらって19世紀創立の名門校に進学し、プロ選手、スプリングボクス、そして、キャプテンまで上り詰めた。

コリシ率いるスプリングボクスがW杯前の親善試合で日本代表と対戦したその日、チェスターが心臓発作で急死した。BBCラグビー担当のクリス・ジョウンズ記者は「南アフリカスポーツ界の象徴的な選手で、ラグビーは白人のスポーツという国内の捉え方を変えるのに貢献し、ブライアン・ハバナら後進が活躍する道を開いた」と書いている

今大会でスプリングボクスが着用しているジャージーの背番号には、代表選手とファンの顔写真がプリントされている。

21日に行われたニュージーランド戦では、チェスターの顔が加えられた。南アフリカ協会は発表の中で「南アフリカのラグビー関係者はアパルトヘイト撤廃以降、1995年大会で優勝した偉大なチームと、そのチームでチェスター・ウィリアムスが果たした特別な役割と共に生きている」と功績を称えた。

20日の前日練習を終えた後、「(1995年の)W杯に優勝した時は、私たちのためにドアを開いてくれた時代だった」と話したコリシ。南アフリカのラグビーマガジンの記事では、「チェスターは特別な存在で、私たちは彼のやってくれたことに応えるため、同じことをしなければならない」とも語っている。

今度はコリシが、南アフリカ・ラグビー界のトランスフォーメーション(変貌)をさらに進める責任を担っている。

※アジア初開催となるラグビーW杯。BBC NEWS JAPANでは日本戦や注目試合の結果をお伝えするとともに、ラグビーを長年取材してきた美土路昭一氏のコラム<美土路の見どころ>を不定期に掲載します。


美土路昭一(みどろ・しょういち) 朝日新聞記者(ラグビー担当)としてラグビーW杯1995南アフリカ大会を取材。元日本ラグビーフットボール協会広報・プロモーション部長。早稲田大ラグビー部時代のポジションはSH。1961年生まれ。


提供元:https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49806563

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